日蓮宗 妙経寺
大分県 杵築市
令和6年11月 選挙の季節3
兵庫県知事選が行われ、前職の斎藤元彦さんが知事に返り咲きました。
テレビ等のいわゆるオールドメディアは、SNSに世論が動かされたと、
自身の忖度・偏向報道を棚に上げて反省の色が見えません。
中には兵庫県民は馬鹿だと評する左翼系評論家・政治家・芸能人も垣間見えましたが、
事実は全く違います。
兵庫県民は「あほ」じゃありません。
玉石混淆の情報が飛び交う知事選を冷静に観察し、齋藤知事のこれまでの実績を高く評価し、賢く選択したのです。
それを仏教では「知識」でなく「智慧」と言うのです。
ただの情報に踊らされるのでなく、そこに自分の体験・経験を基に気付き、行動する。
それが知識と智慧の違いです。見聞したことに基づき、考え・気づき・行動するのです。
先月のとにかく行動しようにも繋がって来ますね。気付いて行動出来れば、
それはもう仏様への第一歩に違いありません。
令和6年10月 選挙の季節2
古代ギリシャの哲学者ソクラテスは結婚について機知に富んだ名言を残しています。
「ともかく結婚しなさい。良妻に恵まれれば、幸せになるだろう。悪妻を得れば、哲学者になるだろう。」
どんな物事も挑戦しなければ結果は出ません。結果は良くても悪くても必ず次に繋がっていきます。
一番いけない事は、挑戦することなく、あきらめてしまう事です。
衆議院議員選挙が終わり、日本の進む先は混迷を極めていますが、どうせ何も変わらないとあきらめず、
一個人として日々精進・努力を続けましょう。
その積み重ねが幸せに繋がっていくのです。
令和6年9月 選挙の季節
今月は、立憲民主党、自由民主党の党首選があります。
公明党も代表が交代するようですし、アメリカも大統領選挙の真っ最中です。
選挙の季節到来です。
さて、選挙というと、政治・経済・安全保障等の話を縦糸にして、
右派だ左派だ、保守だ革新だという話を横糸にして、そこにマスコミが絡み
色鮮やかな?論争が展開されます。
以前、日蓮宗は鎌倉時代当時は、既成仏教の中に楔を打ち込む革新仏教
だったというお話をしたような気がしますが今は昔。
現在はしっかりと日蓮宗も伝統仏教となっています。
だから現在では我々は保守で行くべきか否か。
それは皆さんに判断して頂きたい。
その為の判断の材料となる情報・資料を提供していくのも僧侶の務めであるという思いを新たに、
生暖かい目で党首選を見つめています。
短期的な目先の利益でなく、長期的に日本国をどうしたいのか。どうあるべきかを提示できる人に
総理総裁になって頂きたいですよね。
令和6年8月 パリオリンピックに想う
なにかと話題を振りまいたパリオリンピックが終わりました。
セーヌ川を使い選手入場なんて流石パリ、どんだけオシャレやねん。
と思っていましたが、そういえば雨が降るリスクもありましたね。
セーヌ川も泳げるのか泳げないのか微妙な水質でしたし。
何よりも開会式の多様性全開、何だか微妙にフランスよりの判定の続く競技、
極めつけは欧州のスポーツ放送局が公開したパリ五輪を記念する画像に
中国人、日本人が一人も入っていませんでした。
確かに欧州の放送なのでアジア人が見ることはあまりないと思いますが、
それでもその根底に流れているアジア人蔑視の気持ちが現れているようなうがった
見方をしてしまいます。
何故かトム・クルーズは入っているのに。
別に差別をするなとか言いたいわけではありません。
ヨーロッパはそれこそフランス革命の後、宗教や慣習や歴史、地域の紐帯といったものを
徹底的に否定してきました。
それが人権・多様性・SDGs といった耳心地の良い言葉に繋がっていきます。
それが悪いと言っている訳でもありません。
宗教や慣習、地域の紐帯も負けず劣らず大切ですよ。と言いたいだけなのです。
日本古来の慣習・考え方にも敬意を払って欲しいのです。
自分達の都合の良いルール作りに長けている欧州の口車に上手い事乗せられて、
日本を否定してほしくないのです。
今回のオリンピックで日本人選手は困難を乗り越え大活躍しました。
しかし、その根底に流れるあまり声に出して言えない部分に、
このパリオリンピックの問題の本質があるような気がするのです。
令和6年7月 挨拶は必要か
7月中旬梅雨明け後のある朝、塀の外の道沿いに生える草に除草剤を撒いていました。
まだ6時過ぎくらいですが既に朝日が差し込み、直射日光に当たるとすでに暑い!
その塀の石垣に年の頃90歳くらいのおじいちゃんが腰かけていました。
除草剤をまきながら「おはようございます」と声をかけるとおじいちゃんは「朝から暑いなあ、大変やな」と
返事をされました。「おいちゃん、もうすぐに暑くなるから家に帰ってクーラーつけるんで」というと、
「足が痛うて」と言いながらゆっくりと立ち上がり家に帰ろうとします。
「足痛かったら家まで送るよ」と言うと、「近いから大丈夫」とゆっくりと、でもしっかりとした足取りで歩き、
塀を曲がって見えなくなりました。
田舎では当たり前の会話ですが、最近ネットで「会社で挨拶は必要か?」というようなニュースが話題になっていました。
多様性の時代ですから挨拶をしないという自由があっても良いのかもしれません。
ですが、挨拶って気持ちが良いですよね?以前書いたかもしれませんが、うちでは「おはよう」「行って来ます」
「ただいま」「おやすみ」この4つだけは家族に必ずさせます。
これだけで1日のやる気、メリハリが違うような気がしますが、もう古い考えなんでしょうか。
犬の散歩をしていても、挨拶を返されると気持ちが良い。スポーツをしている中高生は躾が行き届いていて、
かなり遠くから挨拶してくれます。こちらも元気よく挨拶を返します。いやあ気持ちが良い。
私は正直、他の人と一緒にいるよりも、一人で読書をしたりしている方が好きな、もっと言えば孤独が気にならないタイプですが、
外に出て挨拶をすると人との繋がりを感じ、心のリフレッシュになります。
毎日、会社で同じ顔に会うのに挨拶なんて、とか、どうして大嫌いな上司に毎日挨拶をしないといけないの、
とか色々な思いはあるんでしょうが、まず挨拶。めんど臭くても挨拶。
ちなみに「挨拶」は仏教用語なんです。もともとは禅宗のやりとり「一挨一拶」から来ていて、相手の悟りの深さを測るための
問答の事だったそうです。
転じて、一般的な問答、受け答えとなり、現在の挨拶の意味となっていきます。
現代では禅問答をしてやろう、と意気込む必要はありません。軽い気持ちで挨拶しませんか。
令和6年6月 生成AIは神なのか
ある新聞にAIに宗教知識を読み込ませ、AIが神として答える時代になっているという記事がありました。
AIが生成する教えと、人が生成した教えはどう違うのでしょうか。
そもそも、宗教は人により生成されたと考えがちですが、そうではありません。
宗教≒哲学と思うとそうなるかもしれません。
現在中東で対立している、イスラエル・パレスチナとそれを支援する、
アメリカ・欧米等の宗教はユダヤ・キリスト・イスラム教です。
それぞれの信仰する神様は実は同一の神様という事はご存知と思います。
それぞれの開祖(アブラハム、イエス、ムハンマド)は、預言者【神の言葉を預かる者】であり、
神の意を伝達する役目であり、自ら考え教えを説いたわけではありません。
預言を信じるか、予言を自分で生成したんじゃないの?と考えても良いですが、それは受け手の捉え方次第。
欧米・中東の人は信じる人が大多数です。
一方、お釈迦様は確かに神の声を聴いたわけではありません。自分で考えました。
しかし、考えたというよりは、世の中に厳然として存在する真理に到達したという方が正確です。
だから悟りであり、考えとは別のベクトルに至った訳です。
その悟りに至るのはブッダの残した経典を読み込んでもなかなか到達できないものなので、その神秘性は際立ちます。
お釈迦様はこうも言っています。自分の悟りは言葉ではとても表す事は出来ないと。
しかし他人に伝える為には言葉にするしかない訳で、その不十分な言葉(経典)というツールを使い、
私たちはその深淵に触れることが出来るよう、行学の二道を励み、修行を積むわけです。
さてそうなると新聞の記事についての答えもおぼろげながら浮かんできます。聖書を読み込ませても、
または84000もあると言われる仏教経典を全て読み込ませても、それは教えの最大公約数を出すだけで、真の教えではありません。
頭の良い学生が沢山学んで、キリストの考えはこうですね。というのと殆ど変わらないのです。
生成された神の限界点はそこにあると思います。
しかし、もしもシンギュラリティ突破後のAIが、既存の宗教の考え方を越えた全く新しい「教え」を創造し、
それを素晴らしいと思う人が現れた時、ネット空間に神が創出される事になるかもしれません。
それを神と呼ぶのかAIが神の啓示を受けたと考えるべきかの判断は私にはつきかねます。
令和6年5月 自由とは
「自由」という言葉があります。
「自由で開かれたインド太平洋」という言葉ありますが、「自由と民主主義」と言うと、
権威主義国家には受け入れられないため、【自由で開かれた】とし、権威主義でもいいですよ。
でも、航行の自由や貿易の自由、法秩序を守ってね、インド洋・太平洋地域の平和と安定を守ろうね。
と、故安倍晋三総理が提唱した日本の外交戦略です。近年では日本が提唱した構想・戦略としては
殆ど唯一、アメリカやヨーロッパにまで浸透、使われている考え方ではないでしょうか。
さてその「自由」ですが、一般的には、「好き勝手」や束縛されない「自由気まま」というような意味で使われます。
上記構想の考え方もそうですね。
最近の若者は自由でいいね。なんて、使いますよね。
また「自由には責任が伴う」というように、自由に振舞ってもよいが、何かあっても、そこは自己責任ですよ。
というように、一歩進んだ政治的・哲学的捉え方もあります。
自由主義が行き過ぎると、責任をとらない自由もあるんだ!と叫んでしまう人もいるかもしれません笑。
さて、仏教の「自由」とは、自らに由る(みずからによる)という意味で、独立自在である事。
依存せず、寄りかからずに存在するという事です。
仏さまはお亡くなりになる際に、弟子たちに「自灯明(じとうみょう)」自らを拠り所として生きなさい。
という言葉を残されました。
何事にもとらわれず、左右されず、自分を信じ、自らを拠り所とし精進を重ねなさいという事でしょう。
それは悟りの境地を表す言葉としても使われます。
悟った仏様は何事にもとらわれない【真の自由人】なのです。
地球環境やエネルギーなど、なんでも人間の思い通りになると思い、
日々の暮らしでは大量に流れ込むSNSやネットの情報に右往左往する。
自由とは本当は思い上がった現代人では到達の難しい、重い言葉なのです。
令和6年4月 SNSと生き辛さ
私が大学を卒業した時、世間はwindows95ブームで、私もボーナスをはたいてNECのPC9801を買いました。
ワープロソフトは一太郎、表計算ソフトはロータス1-2-3でした。ああ懐かしい。
調べてみたら、ロータスは既に2006年で開発中止、一太郎は細々と生き延びているという感じで、
マイクロソフトのワード・エクセルに徹底的に打ちのめされました。
まさに諸行無常。
何も知らずに、一太郎・ロータス版のPCを買ってしまった事は先見の明が無く、数年してから苦労して
ワード・エクセルに鞍替えしたことを覚えています。
その後ネットの時代が訪れ、電話代が高いので安い夜にネットに繋いだ時代もあったり、ウイルスにやられ、
何故か電話がキプロスに繋がり、数万円の電話代を請求されたりしたことも懐かしい思いで。
と、年寄りの回想が続きましたが、30歳を過ぎて、スマホなるものが登場し、ネットの世界もスマホを主戦場とするようになり、
SNSが猛烈に発達しました。
文字入力はqwerty配列のキーボードじゃないと嫌な私は、スマホでの入力もフリック入力じゃなく、
キーボード表示にして入力します。当然一文字は小さく、タイプミスも多発し、余計にスマホ入力が億劫になります。
SNSに完全に出遅れた私は追いつく事もせず、ほとんどSNSは無視を決め込んでいます。
すると当然ですがSNSの悪い点が全く気にならない。同様に良い点、便利な所もあるのでしょうが、それは享受できなくとも仕方がない。
表題に戻りますが、SNSによる犯罪や、リプライ、悪口等の圧倒的レスポンスの速さによるストレス、生き辛さ等の話を聞くにつれ、
SNSと距離を置いて正解だなとおっさんは思う訳です。
しかし、若者を見ていると今更SNS無しと言う訳にはいかないでしょう。
そこで究極のアナログ・究極のスロースタディ、スローライフのお経を嗜むのは如何でしょうか。
個人と群れ(社会)との紐帯の基礎となって来た仏教には、生き辛い世の中を生きるヒントが満ちています。
それを手軽にSNSで検索してはいけません。ゆっくりじっくり勉強し、自分の物にするのです。
そんな時間は無いですって。そうですよね。それが現在の仏教人気の無さにもつながるので、ほんと難しい問題です。
どなたか良い知恵がありませんか。
令和6年3月 卒業と無常
3月は年度末であり、卒業の月でもあり、受験生にとっては合格発表の月でもあります。
私事ながら、今月は長女・次男の卒業式、次男は合格発表もありました。
長女は卒業後、久留米にある陸上自衛隊幹部学校に入校、次男は目指す大学が不合格となり
浪人する事になりました。
いやー、諸行無常と一言で片づけてしまえばそれまでですが、人それぞれ色々な人生があります。
「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな智慧をもって観るときに、
ひとは苦から厭い離れる。これが清浄への道である。
なんて、ウィキからパーリ仏典を引いたりして、年寄りくさい説教なんていらないですよね。
まだ若いんだから、諸行無常とは可能性である!と意訳したりして、子供達は自分の道を突き進んで欲しいと思います。
もちろん、お年をめしていても同じです。自分も50歳を超え、老眼は進み、腰は痛いし、老化を切実に感じています。
歳を重ねるとは、可能性が減る事ではなく、可能性の荷物を降ろし、出来る事を出来るようにやっていこうと
軽やかに生きる事ではないかと考えるようになりました。
結局なるようになるしかない。そういうことでいいんです。
令和6年2月 太陽暦と太陰暦と二十四節気
2月は暦の話をすることが多いような気がしますが、閏年は特に強く暦を考えるきっかけいになりますよね。
仏教の行事では、歳を数え年で数えたり、旧暦元旦前後に星祭を行ったり、二十四節気の春分・秋分の日に
彼岸法要を行ったりと、歳月等を現代の一般的な歳時の感覚とは違う捉え方をします。
太陰暦は月の満ち欠けの周期29.5日を一月とするので、一年は354日となり、11日も短くなってしまうので、
3年に一度ほど、閏月というもの入れて、一年13ヶ月として調整を行う。という事は、以前も説明したと思います。
いずれにせよ、一月近く暦がずれると、農耕をする人は種まきや収穫のシーズンが一定にならないので、
一年を24に分割し、不都合を無くしました。
なので、二十四節気の中に、穀雨だったり芒種だったりという名前が入っているんですね。
漁師さんや船乗りは月の満ち欠けが潮の満ち引きに連動するので、太陰暦を強く意識した生活となったでしょう。
かように中国由来の太陽太陰暦を独自に修正しながら使用してきた日本でしたが、とうとう明治6年に
新暦(ユリウス暦のちグレゴリオ暦)を採用します。
この話にも落ちがあり、明治5年旧暦では閏月があり、財政逼迫に苦しんでいた明治政府が、13ヶ月目の給料の
支払いをちゃらにするために、突然新暦を採用したのでした。
暦の話も面白いですね。
令和6年1月 多難な船出
まずもって、能登半島地震によりお亡くなりになった方に心からお悔やみを申し上げると共に、
被災された方々にお見舞いを申し上げます。
新年早々、地震や航空機の事故等、今年はどうなってしまうのだろうかという事象が相次ぎました。
しかしながら、これはいつも言っている事ですが、残念ながら地震等の災害や事故がゼロになる
ことはありません。
世界は四苦八苦の苦難が満ちており、お釈迦様はこれをまるで火事になって燃えている家に居るようだ。
とおっしゃります。厳しいお言葉ですが、ある面においては真理です。
その現実を知り、その苦を滅することが出来る事(苦難が無くなるわけではありません)、その苦に囚われない事を
覚る事が出来た時、私たちは、前向きに生きていく事ができます。
俗っぽい言い方になりますが、皆が一所懸命助け合う姿、共感する姿に力を得る事ができれば、
それは菩薩や仏様の姿であり、苦難を乗り越える力になるのです。
どうしても悲観し、絶望しがちですが、何とか前を向いて進みましょう。
確かに世の中は絶望に満ちていますが、それと同じくらい希望に溢れています。
影も光のおかげで出来ます。表裏一体です。世界は希望に満ちています。
令和5年12月 陰で徳を積む
「陰徳あれば陽報あり」とは、日蓮聖人様のお言葉の一節です。
相手に理解されずとも、皆の知らない所で陰徳を積む。
誰かが見てるから良い事をする。見てないから悪い事をしてもいいや。
今さえ良ければいいや。とにかく儲かればいいや。
ではありません。
ただ黙々と徳を積む。
分かり易い陰徳の例として、誰もしたがらないトイレ掃除を人知れず行う、物を大切に使用する、
皆に笑顔で接する、挨拶を気持ちよくするなどです。熱心な信仰も陰徳でしょう。
この陰で貯まった徳の貯金は陽なたで良い事として報われます。
とはいえ、陽報を期待して陰徳を行えば、それは陰徳ではありません。
見返りを求めない、真心からの行いに対して、神仏は微笑まれます。
それがいわゆる「善因善果」であり、「陰徳あれば陽報あり」なのです。
ちなみに、同じような事を過去に記載しているかもしれません。
このHPを立ち上げて既に6年目。過去を全て記憶していません。
(検索すればよいのでしょうが・・・)
故中島らもさんがしてしまった。2週連続同じ内容のエッセイを編集に送ってしまう。
みたいなことになっていても、生暖かく見守ってください。
令和5年11月 イスラエルとパレスチナ自治区
(ガザ地区)の紛争を考える
イスラエルとパレスチナの紛争が拡大を続け、終結の糸口がつかめません。
もともとユダヤ人は2000年以上前にこの地にイスラエル王国を建国していました。
(実際にこの地に王国があったかどうかは証拠が無く、学問的論争が続いていますが…。)
その後、バビロニアやローマ帝国などにより王国は滅亡、ユダヤ人は祖国を失い、流浪の民族として
2000年以上、各地で迫害を受けながら信仰を保ち続けました。
それはそれで凄い事です。
そしてシオニズムとしてイスラエルの地(ここは長い年月の間にパレスチナと呼ばれるようになっていました)に
故郷を再建しようという運動が高まり、世界各地からイスラエルの地に入植します。
さらに、第一次世界大戦時のイギリスの三枚舌外交(簡単に言えば、パレスチナ人とユダヤ人にそれぞれの
国家建設を約束し、最終的には英仏露で植民地にした。)により翻弄された両民族は、対立を深めながら、
1948年のイスラエルの建国、四次にわたる中東戦争、現在のパレスチナ自治区との紛争とずーっと繋がっていきます。
なので、ここ10年20年の対立ではないので、簡単に解決できる話ではありません。
そこにイスラム教のシーア派・スンニ派の対立、中国・ロシア・イランという、謂わば悪の枢軸が絡んでくるので、
話は複雑怪奇を極め、冒頭に戻り、解決の糸口がまったく見つからない状況です。
宗教の対立、民族の対立は根深いものがありますが、仏教者として何とかならないものかと、忸怩たる思いはあります。
しかしながら、一神教の原理主義的考え方は仏教の教えとはあまりにかけ離れたものがあり、
本当に適切な言葉が無い状況です。
できれば停戦から話し合いを進め、なんとか落ち着かせてほしいものですが、話し合いは100年近く続いているのです。
それでも話し合うしかないのでしょう。
人類は数千年経ても進歩できないのでしょうか。
少欲知足で生きることが出来ないのが人間の本質ならば、覚りは遠いでしょう。
日暮れて途遠しとはあまりに残念です。
令和5年10月 金字塔とは
将棋の藤井聡太竜王名人が王座戦で永瀬王座を破り、
八つのタイトルを全て制覇。史上初の八冠を達成しました。
いや、事実は小説より奇なりと言いますか、盛って書かれる小説でも描かないような、
本当に信じられない偉業です。おめでとうございます。棋界のますますの発展を祈念致します。
さて話は変わりますが、この手のニュースで良く出てくる、「金字塔を打ち立てた!」
みたいな言葉ですが、金字塔って何なのでしょうか?
不肖私、浅学非才の身、齢50にして初めて、金字塔がピラミッドを表す言葉と知りました。
確かに「金」の字の屋根の部分がピラミッドに似ていますよね。
古代に作られた遺跡が今まで残る偉大な建造物なので、未来まで残るような偉大な業績の
代名詞として金字塔と表現されるようになったようです。
ちなみに中国語でもピラミッドの事を金字塔と書くそうです。
お釈迦様の教えも2000年以上の時を超え、地域を超え世界に弘がる金字塔となりました。
しかし、昨今この金字塔が崩れかかっているように感じます。
今こそ、私たちは仏様の教えを再度見直し、次世代に繋げる金字塔の修復、
あるいは新たな金字塔を建立しなければなりません。
このことが、ネット・SNS全盛の今こそ、早急に必要な事なのです。
令和5年9月 B〇G M〇T〇Rに想う
今年の夏は、某大型中古車チェーン店の不正、不祥事のニュースが毎日の様に報道されていました。
きっとお店が大きくなるにつれ、創業の志を忘れ、お客様や従業員の事を忘れてしまったのでしょう。
儲けることばかり考えるようになり、不正の横行を許すパワハラ体質な会社になり、結果、崩壊に至りました。
会社が大きくなり、裕福になりましたが心や品性は逆に貧しくなってしまったのです。
まず、お客様の事を第一に考えた仕事をして、信頼され、仕事が増え、結果として儲かるのです。
儲ける事は目的ではなく、結果なのです。
人(人生)や会社の存在意義はお金を儲けることではありません。
「得る」ことばかり考えず「与える」ことが出来た時、執着(しゅうじゃく)から離れることが出来ます。
己心中の欲の皮がはがれ、その中にある仏さまが表に出てきます。
それが心が豊かであることであり、心が豊かなら皆が幸せになれるのです。
与える行為を、施す行為「布施行」といいます。
お布施とは心を磨く大切な修行なのです。
むしろ拓かれる未来に対して希望に満ちていると思います。
それで良いのかもしれません。所詮は年寄りの戯言、私も歳をとったものです。
いずれにせよ、どのような未来が来てもそれは「そういうものだ」でいいのです。
悲観する必要はありません。
と数か月かけて書いて来た事を、たった2行で自己完結してみましたが、どうでしょうか。
おまえは心配なのか、悲観しなくていいのかどっちなのか?
と突っ込みたくなりますが、正直私もまだ分かりません。
長生きして、結果を見届けましょう(笑)。