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令和2年7月 藤井聡太七段はニュータイプかも!

 九州各地で豪雨による災害が続いております。被災された皆様にお見舞い申し上げますと共に、一日も早い再建をお祈りいたします。また不幸にして亡くなられた方々に謹んでお悔やみ申し上げます。

 

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 3年前の今月の法話に、30連勝を阻止された当時藤井4段について諸行無常の話をしました。

 

 あれからわずか3年で七段まで段位を上げ、現在2つのタイトル戦に挑戦しています。

 本当に楽しみです。渡辺三冠も頑張ってください!

 

 さて、わたしは全くのへぼ将棋で、情勢判断もAIの力を借りないと分かりませんが、それでも数か月のコロナ騒動による自宅待機明けの藤井七段は圧倒的に強くなっているように感じます。完全に覚醒しました。

 

 AIの判断を上回る!なんてことも、まことしやかに囁かれます。

 

 藤井七段はアムロ・レイかもしれません。そうです。ニュータイプなのです。既に将棋の棋力は我々凡人の及ぶところではなくなっているのです。

 

 しかも、アムロが初めてガンダムに乗ったのが15歳。藤井さんは14歳でプロ棋士に。何という早熟。

 

 ではオールドタイプはだれなのか。ガンダムシリーズでオールドタイプ最強はヤザンと言われています。あのカミーユを何度も窮地に追い込みました。

 

 

 オールドタイプ最強は羽生善治永世七冠でしょうか。

 

 違います。羽生先生はズバリ、シャア・アズナブルでしょう。

 1年戦争で圧倒的なエースパイロットでありながら、最後にニュータイプに覚醒し、アムロと互角?の戦いを繰り広げました。

 そうです。羽生先生は藤井七段と今後も激戦を繰り広げ、タイトルも3桁の大台に乗り、お二人とも伝説となっていくのです。

 

 

 ではオールドタイプ最強は誰でしょうか。やはり大山康晴15世名人でしょう。これは確定でしょう。

 

 

 最後に、ニュータイプの素養があると言われるレビル将軍は誰か…。

 

 ズバリ現在最年長タイトル保持者、木村一基王位でしょう!

 

 

 

 

 100%趣味の話でごめんなさい。将棋ファンの方、ガンダムファンの方、両者から叱られそうです。

 暗い話題の続く昨今です。少しでも明るい話をと思い。記してみました。話半分で読んでください。

 

 

令和2年6月 密を避けて人は生きられるのか

 コロナ禍が未だ続いていますが、ニュースで最近よく聞く言葉が「新常態(ニューノーマル)」なる言葉です。

 簡単に言えば、密にならないよう、なるべく人同士が離れた状態が、普通の状態です!という事です。よね?

 

 果たして人は物理的に離れた状態(スタンドアローン的)で生きていく事は出来るんでしょうか。

 

 

 僧侶は、悩める人に「寄り添う」事も大切な仕事の一つと思いますが、ネットで寄り添えばいいんでしょうか?

 

 それは本当の寄り添いなのでしょうか?

 

 仏さまの大切な教えの一つに「諸法無我」【この世の全てのものごと、存在は繋がりの中で関係して成り立っている】があります。

 

 確かに、離れていても繋がっているよ!と言われればそうですが、離れましょう!と言われると、素直にはい!とは言えない自分がいます。

 

 私は新常態が普通の状態の世界は要らないと思ってしまいますが、やはり古い考えなのでしょうか。

 

 

 世界は凄い勢いで様変わりしています。

 

 

 新常態(ニューノーマル)の時代は、これまでとは全く違う時代なのかもしれません。

 

 

 その世界に仏教が存在する事を切に願うのみです。

 

 諸行無常、私も変わらないといけないのかもしれません。

 

 

 しかし、自分の様な古い人間はそれが難しい。

 

 

 

令和2年5月 コロナウイルス・新型肺炎に想う3

 ダーウィン曰く、生物の進化の中で生き残るのは、一番強い生物でも、一番頭が良い生物でもなく、一番適応力がある生物だそうです。

 適応力とはいいかえれば多様性であり、私達人間に言い換えれば、色々な生き方が出来ているかという事です。

 でも、最近の風潮は効率重視!極論すれば儲かれば良い。その点に集約されています。

 

 例えば私の住んでいる大分県には有名な温泉処が複数ありますが、ここのところ数年は日本語が殆ど聞こえてこないくらい外国の方が来ていました。

 

 それが良い悪いというのではなく、インバウンドだけに頼った一本足打法、モノカルチャー経済的な状況に何となく違和感を覚えていました。果たしてそれで良いのだろうかと…。

 

 昨秋からの日韓関係の悪化に伴い、韓国の人がぱったりとこなくなり、今はコロナウイルスです。

 

 観光業の方は目も当てられない状況でしょう。

 

 

 この度の厄災は、いつも言うように、私たちの生き方、行動様式を改めて考えなおす。良い機会なのではないでしょうか。

 

 そしてそれでも災害や疫病は完全には防げません。

 何度も言いますが「諸行無常」ですね。

 

 

 「自然」というものは元々、制御できないものの筈です。私たちは科学の進歩で自然も統御下においたと勘違いしがちですが、大自然の前では人の智慧など、ちっぽけなものです。

 

 

 今回のコロナ禍は「人災」かもしれませんが、自然が人災により私達に牙をむいたのです。

 

 

  私たちはもっと自然に対して謙虚に生きていくべきではないのでしょうか。

 

 

 

令和2年4月 コロナウイルス・新型肺炎に想う2

 新型コロナウイルス感染症は、先月より更に拡がりを見せていますが、何とか踏みとどまっています。

 日本の感染者数に比べ、欧米の感染者数が増えている理由として、挨拶でハグをする文化、家族が皆で同居する文化(家族皆が感染)などがあると言われています(医療崩壊と言われるイタリアは同居率が80%)。

 

 三世代が同居し、家族皆で仲良く暮らす。素晴らしい事です。羨ましいですね。

 

 それに比べて日本は冷たい!という訳ではありませんが、「子供たちの世話にはならない、迷惑をかけたくない。お墓は整理して、自分たちは永代供養塔に入る。子供は都会で自分たちでやっていくだろう。」よく聞くお話です。

 

 しかし、今回に限ってはだからこそ、若者から高齢者への感染を防ぎ、感染爆発を防ぐ一因となっているのかもしれません。

 

 この辺りは、もう少し臨床例が増え、ビッグデータを解析し、やがて本当の事が分かってくる事と思いますが、先月と同じく、物事には二面性があり、良い悪いと一概に言えない所が難しい。

 

 何度も言いますが、世の理は諸行無常、「ままならない」ものです。

 お釈迦様の智慧はあまりに深く、私の様な凡夫ではうかがい知れません。

令和2年3月 コロナウイルス・新型肺炎に想う

 年明けより拡がり始めた、コロナウイルスによる新型肺炎が日本・世界で猛威を奮っています。

ついにここ大分でも感染が確認されました。

 

 武漢で発生した疫病は、中国からの旅行者を通してあっと言う間に世界に広がりました。飛行機や電車等の高速交通網の発達で世界の距離は圧倒的に縮まりましたが、病気もあっと言う間に拡がる時代です。

 

 便利なSNSにより、トイレットペーパー不足の噂が出ると、瞬く間に市中からトイレットペーパーだけでなく、ティッシュペーパーや紙おむつ迄無くなる始末です。

 

 便利な暮らしは、沢山のCO2を排出し、地球温暖化、海面上昇の原因となっていると言われています。

 

 原発もそうです。安いコスト、CO2を出さないクリーンさが売りだったはずですが、最悪の放射能漏れ事故を起こしてしまいました。

 

 便利さや効率だけを考えて生きていると、その反面の負の部分に気付かず、このような惨事になります。

 

 

 今回の疫病は、目先の利益・効率に走り、古き良き伝統を蔑ろにする最近の風潮(そこには寺離れや墓仕舞等も含まれます)に、神仏が下した天罰と言えるかもしれません(言い過ぎかもしれませんが(;´Д`))。

 

 外国では宗教施設で感染が拡大しました。「なんだ宗教なんてインチキじゃん」と思った人もいると思います。

 しかし、どうしても避けられない(ままならない)災難に遭った時、私達がどう生きるかに道標を示すのが本来の仏教なのです。絶望に打ちひしがれる衆生に、前向きに進む、生きていく光明と希望を与えるものが仏教なのです。

 

 普段暮らしていると気付きにくいですが、普通でいられるという事、病気も災害も事故もなく普通に暮らしていられるという事、欲しい物が欲しい時にすぐに手に入る事は、実は、とても素晴らしい事です。

 

 「有り難い(ありがたい)」という言葉があります。

「有る」事が「難しい」ので、「滅多にない、珍しい、貴重」という意味で使われますが、実は普通でいられることがとても「ありがたい」ことなのです。

 今回とてもこの「普通」の良さが皆さんもお分かりになったと思います。

 

 

 

 さて、グレタさんじゃありませんが、私達は今一度、人としてどう生きていけば良いのかを振り返る時期に来ていると感じます。

 

 地球環境・資源を維持出来なくなるまで、欲望の限りを尽くすのか、「少欲足知」少ない欲で足る事を知り、先人の知見を守り、伝統ある暮らしを続けていくのか、後者の考え方が出来た時、今回の災難を乗り越える光明が、どう行動すべきかが、見えてくるのではないでしょうか

令和2年2月 閏年・オリンピックの年

 閏年の2月28日です。お話の更新をすっかり忘れていました。確か、前回もこんなことがあったような気がしたので、今月の法話を遡ってみたら、前回の閏年の2月、丁度4年前にも忘れてました。

 

 何か閏年の2月にあるんでしょうか?

 

 前回はリオオリンピックの時でした。今年は年明け早々コロナウイルス・新型肺炎が猛威を奮っていて、東京オリンピックの開催が危ぶまれる所まで来ています。

 

 国難に見舞われている今回、私たちはどのような心持でいれば良いのか…。

 

 直ぐに3月が来るので、その際に私の考えを吐露したいと思います。

 

 

令和2年1月 明けましておめでとうございます

 明けましておめでとうございます。

 

 令和の新たな時代が始まりました。

 

 昨年は御代替わりから消費税増税、桜を見る会からIR疑惑に台風災害と沢山の出来事がありました。

 年の瀬にはゴーンさんが国外逃亡もしました。

 

 新年も早々からアメリカとイランの緊張感の高まりがあり、今年も多難な一年を予感させます。

 

 やはり残念ながら今年も良い事ばかりでなく、様々な辛苦に見舞われるでしょう。

 

 しかし一年を振り返った時、「色々あったが今年は良かった」と思える年になるよう、苦難に立ち向かい前向きに進んで行きましょう。

 

 仏教とはままならない事(諸行無常)がある事を理解し、そこから立ち上がる処から始まるのです。

 

 今年も宜しくお願い致します。

令和元年12月 ブーメランに当たらないように

「ガラスの家に住む者は石を投げてはならない」(People who live in glass houses should not throw stones.)とは、英語のことわざで、「自分も完ぺきではないのだから、他者を批判するな!」という意味です。

 最近の政治ニュースを見ると、まさにこの言葉がぴったりです。

 

 人に投げたブーメランが帰って来て自分の頭に突き刺さる事がないように、人を声高に批判する前に、まず自分の行いを省みたいものです。

 

 かくいう私も、僧侶という生き方をしている以上、法を説かねばなりません。

 その内容は、難しいお経の話よりも、どうしても道徳に近いお話をする事が多くなります(難しいお経の話は出来ないという指摘はさておいて)。

 

 正直言いまして、そちらの方が受けが良いものです。一般的にそのような、言わば身につまされる話を人々は求めています。

 

 振り返って自分は、偉そうに話が出来る僧侶であるだろうかという、自省の念は常にあります。私は全くもって不完全な人間です。

 

 でも不完全な人間同士が補い合いながら、より良い社会、果ては悟りを目指して、少しずつ進んでいく。

 

 今日よりは明日、今年よりは来年が良くなっている事を期待して、日々精進していきましょう。

 

 令和の新時代の1年が終わろうとしています。

  

 皆さん、お世話になりました。

 

令和元年11月 続く災害

 先月は関東地方、特に千葉県が台風による風水害を複数回にわたり被りました。

 被災された皆様には、心よりお見舞い申し上げます。

 

 最近本当に災害が多いような気がします。また、古来より日本は地震国でもありますし、各種災害・飢饉・事故等が起こって来ました。

 

 残念ながら人類の叡智ではこれらの大型災害を完全には克服できないでしょう。

 

 お釈迦様の智慧では、この災害が続く事についてこういわれました。「諸行無常」・「一切皆苦」と…。

 

 この世の中は「ままならない」ものであり、一切が「苦」であるとは、ほんとうに身も蓋もない言い方ですよね。

 

 

 しかし、この後こう続きます。それらをありのままに受入自覚する事が出来た先には、「涅槃寂静」という、清らかで安らかな境地に至る事が出来る。…らしいのです。

 

 

 私も未だ三毒に侵され、全く涅槃寂静の境地には至っていないのですが、お釈迦様は確かにその境地に入られたのです。

 

 

 被災・事故等に遭われた方は本当に大変だと思います。

 

 

 しかし、それでもなお、前を向いて立ち上がる時、そこに「神が宿る」のです。

 

 

 

 

 

令和元年10月 持たざる者

 【愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ】とは、ドイツ帝国の宰相ビスマルクの言葉です。

 という言葉の引用はこのHPのどこかにしたような気がします。

 

 

 さて、先月スクーターに乗っていて滑って転んで少し怪我したと徒然に書きましたが、のど元過ぎれば熱さを忘れるとはこの事で、怪我が治ってくるとまた調子に乗ってスクーターにぶんぶんと乗り始めました。

 

 息子を後ろに乗せ駅まで送る道中、流石にコーナーはゆっくり走りながらも、そのアベレージは徐々に上がっていきます。

 

 

 歴史に学ぶどころか、経験にも学んでいないとは最悪だな、と言いながら運転する私に息子が後ろから一言「それは【持たざる者(学ばざる者)】だな」。

 

 息子よ、ソウルシリーズのやりすぎによりフロム脳になっているなと思いつつ、やはり持たざる者よりは【聖職者】の方がいいよなと愚考するあたり、私もまだまだ未熟者。

 

 

 今回の話はすこしマニアックでした。

 

 分かる人はかなり若い人かもしれません。

 

 

令和元年9月 夏の終わり

 今年の夏はもう終わりましたね。

 残暑が殆どありませんでした。梅雨明けも遅れて、盛夏の短い年となりました。

 

 正直に言えば、お盆の棚経期間中は涼しい方が有り難いのですが…。

 

 毎年猛暑でもありません。冷夏の年もあります。また程ほどの暑さの【中道】が良いのは言うまでもありません。

 

 しかし、いつも言う様にこの世の在りようは【諸行無常】であり、暑さ寒さも【ままならない】ものです。だから、私たちは毎日を一所懸命に生きるのです。

 

 

 秋が一足早く訪れます。秋の夜長に仏教書を読むもよし、趣味に没頭するもよし。

 

 【人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、 何事かをなすにはあまりにも短い】

 

 「山月記」の作者、中島敦の言葉です。

 

 

令和元年8月 人と組織

 「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」とは戦国武将、武田信玄の名言です。

 人手不足が叫ばれる昨今ですが、人こそが一番大切であり、人をちゃんと育てられる組織、そして魅力あるリーダーに人は付き従い、組織の堅固な人材として石垣や堀になっていきます。

 そういう組織は、戦国時代の名城が今も残るように、いつまでも続いていくでしょう。

 お釈迦様にも十大弟子と呼ばれる10人の直弟子がおり、舎利弗(シャーリプトラ)や摩訶目犍連(目連:モッガラーナ)は特に有名で、名前を聞いたことがある人もいるでしょう。

 彼らがお釈迦様入滅後の仏教教団の発展に大いに貢献します。

 日蓮聖人様にも六老僧と称される六人(日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持)の直弟子がおり、これまた日蓮聖人入滅後の法華経の弘通に活躍されます。

 

 身近な例ではホンダや松下電器(パナソニック)もそうですね。

 

 天才的な創業者だけでは組織は存続出来ません。

 

 次代を担う人を育成して世代交代していく事。

 

 これも素晴らしい天賦の才なのです。

 

 

令和元年7月 頓死と頓成

 頓死(とんし)とは突然亡くなる事で、将棋においては自玉の詰み筋に気付かず、優勢なのに突然詰まされて負けてしまう事を言います。

 

 法華経には頓成(とんじょう)、正確には速疾頓成(そくしつとんじょう)という言葉があります。

 意味はすみやかにただちに成仏すること。であり、法華経において【本当の女人成仏】を説く場面でこの言葉が出てきます。

 

 詳しいお経の説明はしませんが(出来ないともいう)、頓死といえば、もはや伝説となった羽生九段対中川八段の棋戦において飛びだした、ひふみんの「ぴゃー頓死?」が有名ですよね。

 

 

 ともかく頓の次の字が「死」か「成」かで意味が180度変わります。

 

 仏教とはお葬式や法事をしたりする、「死」にまつわる事と思っている人は多いと思いますが、本来は「成」、生にまつわる事、私達がこの世で生きて成仏する事、本来の生き様を見つけていく事が仏教の本質です。

 

 

 

 息子二人が将棋を指す姿を見ながら思いました。

 

 

 

 しかし、もう息子たちに将棋で勝てないのです…。

令和元年6月 様々な事件・事故

 悲しい事件、事故が立て続けに起こっています。

 登校中の事故を防ぐために、バスでの送迎を実施したら、今度はそこを狙われました。

 

 極論すれば、家から出れば事故・事件に見舞われる可能性があります。

 

 かといって、家から出ずに引きこもっていると、それはそれで色々な事件が家の中で立て続けに起こっています。

(当然これは一部の話で、大半の引きこもりの方は大人しく静かに過ごしておられます。)

 

 

 

 もう一つ、統計的な話をさせて頂ければ、随分前に「三菱自動車炎上」のニュースが巷にはやり、三菱自動車が相当ダメージを受けた騒動がありました。

 

 トヨタ、日産に次ぐホンダ・マツダ・三菱の第三位グループを形成していた三菱は今やスバルにも抜かれ、往年の元気は全く無くなってしまいました。

 

 そして、実は自動車の炎上は三菱車に限らず、毎日起きている(平成27年1631件、一日あたり4件以上)、のですが、ニュースが「また三菱車炎上!」とやると、視聴率がとれるので、暫くの間このニュースが盛り上がり、恐ろしいほどのダメージをメーカーは受けたのです。

 

 確かに、三菱自動車が当時欠陥隠しをしていたのは事実ですが、その後あっちこっちのメーカーが、欠陥隠し、改ざんをしてたのは、皆さんご存知の事と思います。

 

 似たような事は、老人の運転による、暴走事故です。

 

 これも、老人の運転による暴走事故ばかり取り上げられますが、実は統計的にみると、老人よりも若者の方が実際の暴走事故数も多ければ、10万人あたりの事故件数も多いのです。

 

 しかし、普通の事故は全く取り上げず、老人の暴走事故ばかり取り上げ、老人の運転は危険だというレッテル張りをするのです。

 

 

 そして、こういう言い方は賛否両論あると思いますが、残念ながら全国で小さい子が亡くなるような事件・事故は毎日の様に起こっています。

 

 たまたまセンセーショナルな事件により、マスコミに多く取り上げられ、レッテル張りが行われるのです。

 

 多くの老人の運転や現在引きこもりの人達が白眼視される事は確実ですが、実際は事故や事件を起こす人の割合は、老人や引きこもりの人の方が低い可能性は十分ありえるのです。

 

 

 もちろん、様々な対策が必要である事は承知しておりますし、残されたご家族の皆様の心中如何ばかりかと張り裂ける思いも当然あります。

 

 

 しかし、加害者の様に保育・幼稚園の関係者を責めたてたり、街頭の人のインタビューを取る。

 

 バイアスのかかった情報から距離を置き、私たちは、冷静な目で物事を判断しなければなりません。

 

 例をあげれば反原発運動です。原発反対の人たちの気持ちも分かりますが、直接原発の事故で無くなった人は今のところ、日本にはいません。

 

 しかし、平成30年は交通事故で3,532人の人が亡くなっています。

 ちなみに最高は昭和45年の16,765人ですし、統計のある昭和23年から平成30年までに交通事故で亡くなった人は633,266人もいるのです!

 

 反原発の人は60万人以上も日本にいる人を殺した自動車というものを何故無くそうとしないのでしょうか。

 

 便利だから?必要だから? それはダブルスタンダードではないのでしょうか…。

 

 

 何度も申し上げますが、物事のセンセーショナルな一面だけを見て判断せず、俯瞰して世の中を見渡す事が大切だと感じます。

 

 消費増税しかり、憲法改正しかり、私たちは左右様々なものの味方を吟味し判断しなければいけません。

 

 それが、お釈迦様が実践してこられた中道の有り方です。

 

 唐突に無理やり仏教に結びつけましたが・・・。

 

 

令和元年5月 令和元年を迎えて

 先月の新元号の発表から一ヶ月たち、いよいよ令和元年が始まりました。

 

 202年ぶりの生前退位(譲位)という事でしたが、予想以上の盛り上がりを見せ、やはりお祝いムードで新しい時代を迎える事が出来るのは有り難い事でした。

 

 日本史で学んだ【大化の改新】の時初めての元号「大化」が制定されて約1400年。

 

 元号なんて古臭い!言いそうな若者たちも取り敢えず喜んでくれたようで何よりです。

 

 ちなみに日蓮聖人様の御降誕は貞応元年(1222年)で、もうすぐ800年!です。

 

 

 中国由来の元号ですが、本家の中国も、元号を使用していた周辺国家も全て元号を廃止し、西暦にしてしまいました。

 

 

 この伝統の元号を大切にしていく心が、先月の話に重なりますが、日本人としての文化や習慣を大切にしていく事、ひいては先祖供養や信仰に繋がります。

 

 

 この新元号を迎えて、素晴らしい・有り難いと思った気持ちを次の令和世代の人たちにも伝えていって欲しいです。

平成31年4月 新年号発表!

 新元号が発表されました。「令和」です。

 来月から新元号になり、名実ともに新しい時代が始まります。

 

 最初は菅官房長官の掲げた令和の額を見て、「ん?」と思いましたが、慣れてくると親しみが湧いてきます。

 

 

 思えば「平成」になった時、私は高校一年でしたが、変な年号と思った覚えがあります。しかし時が経つと平成でないと違和感を感じるように…。

 

 この新しい時代を迎える「感覚・空気」を感じる事が出来るのは世界で日本人しかありません。

 

 

 これは神社や寺院に参詣したり、ご先祖様を供養・敬う感覚に通じるものがあります。

 伝統的に慣れ親しんできたからこそ、感じる事ができるのです。

 

 

 若い人やリベラルな人の中に元号は不要という意見の人がいますが、元号とは日本人が日本人たる大切な要素の一つなのです。

 

 

 日本は日本人だけのものでは無いかも知れませんが、日本人が世界に合わせて変わる必要はありません。

平成31年3月 民主主義の行方

 イギリスの政治家、ウインストン・チャーチルの名言に「民主主義は最悪の政治形態と言うことができる。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば」があります。

 

 昨今の世界の政治状況を見渡すと、当のイギリスのブレグジット問題、アメリカファーストに顕著に見られるような保護主義の台頭等、民主主義はしっかり機能しているのかどうか首を傾げたくなる状況が溢れています。

 

 

 民主主義は万能だ!的に〇〇主義と言われると、それが絶対正しいような気分になり、突き進めれば原理主義に繋がっていきます。それは民主主義の自壊のような気もします。

 

 

 米朝首脳会談も決裂し、いやなニュースに気持ちも落ち込みますが、そんな時は世の中の事物をあまり難しく考えすぎず、仏教の教えで頭を冷やしましょう。仏教的には絶対に正しい物、存在はありません。万物は縁によって存在し、常に流転し、消滅を繰り返します。

 

 民主主義ですら、本来は「ままならないもの」なのです。

 

 

 必要以上に一喜一憂せずに、少しずつ歩みを進めれば良いのです。

平成31年2月 ゲーデルの不完全性定理

 先日、数学者の藤原正彦先生の本を遅ればせながら読んでいたところ、「数学というものは、全てを白黒つけられる正しいか、間違いかの二択しかないものと思われていたが、正しいか間違いかを数学的に帰納することが出来ない場合がある。」との記述がありました。

調べてみると、これは表記の【ゲーデルの不完全性定理】だそうです。

 なるほど、数学・科学技術が今後どれだけ進歩しても、世の中の全ての「真理」が解き明かされる事はない!つまり、神様仏様の領域は、やはり自然科学では解明できないんだ!

 と、ほくそ笑んでおりました。

 しかし、庶民の味方、Wikipediaにて調べたところ、一応大学では物理学を専攻した私ですが、全く定理を理解できませんでした(;゚Д゚)!

 一言で言うと「ある程度の有限算術を含むどんな無矛盾な形式体系にも決定不能な算術命題が存在し、さらにそのような体系の無矛盾性はその体系においては証明できない。」そうです。

 ・・・・・分からないですよね。

 殆ど禅問答ですよね。宗派は違いますが。

 

 そしてWikipediaにはさらにこう記述が続きます。

「ゲーデルの名や定理は「知的会話」に頻出している。フランセーンが述べたように、インターネットのどんなニュースグループでも、遅かれ早かれ誰かがゲーデルの定理を持ち出す。そういった一般的な引用における間違いを正す云々・・・」。

 すいません、遅かれ早かれ持ち出したのは私です。そしてこの引用は間違いなようです。

 この定理は、特定の狭い領域の形式体系の中で成り立つ話だそうです。自分でも何を言っているのか分かりませんが。

 というわけで、仏教の世界も、自然科学の世界も奥が深く、まだまだ勉強が必要という事が分かっただけでも良しとします。

 

 法話でもなんでもないぐだぐだな話ですいません。

 

 

平成31年1月 新しい時代を迎えて

 あけましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します。

 

 

 さて、平成最後の年が始まりました。5月には皇太子殿下が天皇に即位され、新しい年号、新しい時代が始まります。

 

 昨今の急激に進むネット社会、特にSNSの発展は従来あった物理的な国境・言語・人種の違いを曖昧にし、ボーダーレスな社会を実現しつつあります。

 

 昨年のいわゆる入管難民法の改正により、より沢山の外国人労働者(国連の定義によると、これは移民なのですが…)が日本に入って来ます。

 

 【日本列島は日本人だけの所有物じゃない】と発言した政治家もいましたが、良い悪いの問題ではなく、事実として受け入れないといけない時がきているようです。

 

 

 スマホからガラケーに戻し、MT車に乗る事が大好きという保守的な私には、正直に申しましてこの状況には息苦しさを感じざるを得ません。

 

 みんな、スマホなんか放り出して本を読もうよ!と言いたい所ですが、圧倒的な少数派でしょう。

 

 

 変化を受け入れるべきところは受け入れ、芯として残すべきところはしっかり残していく。

 

 その見極めが、眼力が必要とされる時代に入っていきます。

 

 仏教とは、一言で言えば、どんなにお金を儲けても、楽が出来ても、快楽を享受しても、それでも解決できない根本的な苦を滅する教えです。そして皆が幸せになれるのが仏教です。

 

 この上座部と大乗の根本原理を芯に持ちながら新たな時代を進んでいきましょう。

 

 

 どうぞ本年も宜しくお願い致します。

平成30年12月 12月8日は何の日?

 12月には日本人の誰もが知っているクリスマスがあります。12月24日の日没から翌25日の日没までがクリスマスです。所謂イエス・キリストの誕生をお祝いする日ですね(誕生日ではありません)。

 

 ですが、12月に日本人なら知っておいて欲しい日があります。それは12月8日です。

 

 12月8日は真珠湾攻撃・太平洋戦争開戦の日だ!と思われた方。

 または、ジョンレノンが暗殺された日だ!と思われた方もいるかもしれません。

 

 

 仏教的には12月8日はお釈迦様が悟りを開かれた日なのです。

 

 お釈迦様が初めて悟りを開かれたことを【成道(じょうどう)】といい、この日には成道会(じょうどうえ)という法要を行うお寺も多いです。

 

 

 お釈迦様が誕生された4月8日、悟りを開かれた12月8日、お亡くなりになった2月15日は、日本人として最低限覚えておいた方が良いかもしれません。

 

 

 何と言っても、クリスマスを楽しむ人は多いと思いますが、4月8日の花祭りをお祝いする人は、ごく少数とおもいます。

 

 クリスマスだ、ハロウィンだ、ましてやブラックフライデーだという前に、地味だと言わず地域の仏教行事に参加してみてください。華やかさとは違う、厳かで厳粛な雰囲気はまた別の意味で落ち着いた癒しになるでしょう。

 

 一見さん大歓迎です。地域のお寺に足を運んでみては如何でしょうか。

 

平成30年11月 本庶博士のノーベル賞受賞に思う

 

 先月ノーベル賞に発表があり、ノーベル生理学・医学賞は、京都大学名誉教授、本庶佑先生が見事に受賞されました。

 

 ノーベル賞が話題になるたび言われる事が、最近の日本は基礎研究をおろそかにしている。このままでは早晩ノーベル賞は取れなくなるというものです。

 

 全くその通りで、基礎研究をやめ、近視眼的・短期的に成果のでる研究ばかりを追い求めても、その国の科学技術力の底上げにはつながらないと思います。基礎がやっぱり大事なのです。

 

 さらに一言付け加えるならば、本庶先生を含め、ノーベル賞を取ろうと思って研究をしていた訳ではありません。

 

 ノーベル賞は目的ではありません。あくまで、こつこつと研究を積み重ねてきた結果なのです。

 

 

 

 同じことは、仏教にも当てはまります。まずは日々の信仰を続ける事、それが一番大切な事なのです。

 

 日蓮大聖人様はこうおっしゃいました。

 「行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候…。」

 非常に有名な御遺文ですが、私たちに、修行と勉学に励む事と、その源は日々の信仰である事を説かれています。

 

 

 そして、日々の信仰の積み重ねが、信仰の貯金が、本当に大切な時、必要な時に、ご加護を頂けることに繋がるのです。

 

 本当の仏教による救いは、求める物では無く、結果として付随するものなのです。

 

 

 科学と物理、概念は対極にあるように思えますが、プロセス、道筋は同じものなのです。

平成30年10月  日蓮大聖人様は革新だったのか その2

 平成29年11月に、上記タイトルで言いたい事だけ言って、ずーっと続きを書く事を忘れ、放置しておりました。

 

 投げっぱなしはいけません。

 

 というわけで、左右・保守・革新の説明は前回しておりますので、漸く表記、日蓮大聖人様の考え・行動は革新なのか?それとも保守なのか?という話になります。

 

 様々な意見はあると思いますし、これはあくまでも私の私見ですが、日蓮大聖人様はゴリゴリの「保守」なのです。

 

 当時の日本に溢れる仏教宗派・思想は、間違っている。お釈迦様が本当に仰りたかった真の教えは「法華経」であり、日蓮大聖人様はその教えを、時代を通じても、時空を超えても両方に於いて、直接的に仏様の教えを受け継いでいる!とお悟りになられました。

 

 そういう意味においては、法華経は本来あるべき仏教の本流にあり、その教えを守っていくという事は、まさに「保守」であるわけです。

 

 ですが、日蓮聖人以前の鎌倉仏教盛んな当時にあっては、「革新」とみなされ、様々な迫害・「法難」に遭われ、法華経の信仰をさらに深くされていくのです。

 

 とは言え、思想信条も時と共に移り変わります。

 

 保守・革新等という区分に必要以上こだわる必要はありません。本質を見失わないように、程ほどの「中道」の生き方をしなくてはなりません。

 正にこの世は諸行無常であり、「ままならないもの」なのですから。

 

 

 

平成30年9月  彼岸花のお話

 もう9月になりますが、今年は本当にいつまでも暑いですね。

 暑さ寒さも彼岸まで、もう少しの辛抱です。

 

 さて、秋彼岸の頃に田んぼのあぜ道などに良く咲いている花をその名の通り、「彼岸花」と言いますが、法華経にも「曼殊沙華(マンジュシャゲ)」という名前で登場します。

 サンスクリット語のmanjusakaの音写で、意訳すれば「天上の紅い花」の意味があるそうです。

 

 法華経においては、お釈迦様が法華経を説かれる会座に於いては、天が上述の曼殊沙華も含め、曼陀羅華・摩訶曼陀羅華・曼殊沙華・摩訶曼殊沙華の四つの花を降り注いだそうです。

 

 ちなみに古本屋さんの「まんだらけ」は「漫画だらけ・曼陀羅華」と併せてここから屋号を拝借しているのではないかと、いつも考えてしまいます。

 

 

 彼岸花自体は中国から伝来したもので、同じ種類のゲノムを複数持つ三倍体なので種子で増える事が出来ず、つまり日本に数多ある彼岸花は、全て同じ遺伝子を持つ兄弟と言いますか、同一植物なのです。

 

また、有毒なため、土手や畔に植えておけば、土に穴を掘る小動物を寄せ付けず、また球根部分は水に浸して毒を抜けば、緊急食糧(救荒作物)となった為、日本中に広く植えられて、今に至ります。

 

 

 

 大飢饉の際、食べるものが全てなくなり、とうとう彼岸花も食べて細くなった命を繋いでいく。

 

 

 彼岸に行かないように、何とか此岸で踏みとどまる為、彼岸花を食す。

 

 曼殊沙華がどうして彼岸花と呼ばれるようになったかは不明ですが、こんなに名は体を表す呼び名はないのかも知れません。

 

 彼岸花にも歴史ありです。

 

 

 

平成30年8月  物理的領域の因果的閉包性 (いんがてきへいほうせい)

 科学雑誌ニュートンを読んでいたら、改めてシュレディンガーの猫についての記事がありました。

 そうです。理系少年ならば、相対性理論とシュレディンガー方程式は、意味は全く分からなくても、取り敢えずお題目の如くぶつぶつと唱え、いつかこの世の物理法則は私が全て解き明かす!などと、中二病爆発の気持ちを持っていたものです。

 

 かくいう私もその一人だったのです…。ああ、若気の至り。

 

 さて、改めて、この猫は観測者による観測の瞬間まで、生きている状態と死んでいる状態の重ね合わせの状態、つまり半死半生の状態で存在しているのか?

 

 それともそれぞれの結果に併せた多元世界がそんざいするのか、そもそもミクロの領域で議論される量子論が猫というマクロな存在にまで適用されるのか等、はっきり言いまして、良く分からない!

 そして、相変わらず、物理好きを魅了する話だなあという事は良く分かりました!!

 

 もっと、話をすすめると、タイトルの物理的領域の因果的閉包性まで、話が及びます。

 

 これは、一言で言えば、【物理現象による因果関係は、物理現象以外の一切の原因を持たない】という、物理的閉鎖性を指す言葉です。実は書いている自分も良く分からないのですが…。

 

 さて、ここで問題になるのはその物理現象には心・意識といったものは、関係してくるのか否かということであり、否という事であれば、シュレディンガーの猫が人が観測したと同時に重ね合わせの状態から、生死へ収束するとはどういうことなのかとパラドックスが生じる訳です。

 

 

 ここまで、色々書いてきましたが、上記内容は中二病にかかった住職が、一所懸命本を読んで、ウィキペディアを参照しまくって愚考したものなので、間違っている可能性が大です。参考程度に読んでください。

 

 

 結局何が言いたかったのかという事ですが、日蓮宗には【一念三千】という言葉があります。私たちの思い【一念】は、この世の中全て【三千】を作り、全てが関連し合って存在しています。これは物理現象でいう【観測】と等価なのではないか。

 

 シュレディンガーの猫という物理的思考実験は、仏教の根本的な部分で実は繋がっているかもしれないと思うのです。

 

 自分の未熟さ故、言葉足らずな部分がありますが、もうすこし勉強を進め、また考察してみたいと思います。

 

 

平成30年7月  サッカーワールドカップに想う

 世間の話題はサッカーワールドカップ一色に染まっています。直前の監督交代もあり、あまり期待されていなかった分、勝てば余計に盛り上がります。決勝リーグに残るために、負けているのに引いたプレーをするというのも、日本らしい泥臭いプレーで感心させられました。

 

 そうです。サッカーに限らず、生きていくという事は泥臭いものなのです。綺麗ごとばかりでは済まない世間を、信仰という清涼剤を持って生き抜いていく。

 

 勉強!成績!営業!売上!利益!忖度!人間関係!…。

 

 色々なプレッシャーが皆さんに覆いかぶさる時もあるでしょう、そんな時、人生に疲れた時は信仰・お題目という薬を頂いて、一休みする事も必要です。

 

 

 心静かに、自分を見つめ直し、自分という存在は関係性によってしか成り立たない事を感じる事が出来た時、人生はままならないものだと、感じる事が出来た時…。

 

 その時に始めて世知辛い世の中を、まだまだ捨てたものでは無いと感じる事が出来るはずです。明日への活力が湧いてくるはずです。

 

 それでもきついという方、当寺でも近所のお寺でも構いません、遠慮なくお尋ねください。そのためにお寺はあるのです。

 

平成30年6月  圧倒的才能に震える

 

 今、崎山蒼志君という若干15歳のシンガーソングライターって言うんでしょうか。少年がネットで話題になっています。

 

 家内から、この子凄いよと教えてもらったYoutubeを見た所、その凄さにひっくり返りました。

 

 もう皆さんがさんざんあちこちで書いているとおもいますので、うんざりかもしれませんが、ここでも言います。

 本物の圧倒的天才です。

 

 ギターも歌詞も歌唱力も全てがオリジナルで超絶です。

 

 特に中学一年からシャカシャカと中年になった今でもギターを弾いている自分としては、その圧倒的な才能の差に、ギターを窓から放り投げたくなりました。

 

 ただ、あの複雑なコードやコード進行やいわゆる経過音について等の話についていけたことだけでもギターをやってきて本当に良かったと感じました。

 

 将棋の藤井君も15歳ですが、天才ってやっぱりいるものなのですね。

 そして、才能におごらず凡人の何倍も練習・勉強もしているのだと思います。

 

 さいしょから光っている珠をさらに磨いてビカビカにしているんですね。

 

 それに比べて自分は最初から珠でもない石ころで、さらに碌に磨きもせず、苔むしています。

 

 

 

 さてさて、ここから強引に仏様の話に持って行きますが、やはりお釈迦様や日蓮聖人様はその時代を超越した天才だったと思われます。

 

 ここまで世界の思想・信仰の基礎を作ったのですから。

 

 日蓮宗的には、お題目を唱え信仰を保つ事がいわゆる一般でいう練習・勉強であり、天才の覚りに少しでも近づく唯一の方法な訳です。

 

 私のような凡夫は日々の地道な積み重ねしかありません。

 

 それを理解できただけでも良しとしましょうか。

 

 

 

平成30年5月  歴史から学ぶことは出来るのか

 

 「人が歴史を学んで分かる事は、人は歴史から何も学ばないという事だけだ」これはドイツの哲学者ヘーゲルの言葉です。

 つまり、人は過去を学ばないので、いつまでたっても、戦争は無くならないし、常にバブル経済は発生し、常に崩壊するという事です。
 戦争は言うまでもなく、バブルは古くはオランダのチューリップバブルから、最近では記憶に新しいビットコイン等の仮想通貨バブルもそうですね。

 

 最近の北朝鮮の情勢を鑑みると、ヘーゲルの言葉が当てはまらない事を祈るだけです。半島を巡る情勢は、過去の歴史を見てもそう簡単には収束しないような気がするのは私だけでしょうか。
 

 さて、宗教・仏教はどうでしょうか。お釈迦様より二千五百年余り、人々は仏教から何かを学ぶことはできたのでしょうか、何も学べていないのでしょうか。


 宗教は、人としての根本的な行動規範を与えてきたのです。
 

 誰かが見ているから良い事をする、悪い事をしないのではなく、お天道様が見ていらっしゃるから、しないのです。
 

 陰で積んだ徳は、陽(ひなた)で報われるのです。
 

 人類は、未だお釈迦様の教えを学びきれていないのが、現状です。未熟な私ですが、そのお手伝いをさせて頂くのが、僧侶の役目なのです。
 

 なんだか先月と同じ終わり方になってしまいましたね。

 

平成30年4月  「ありがとう」を再考する

【ありがとう】とは形容詞「有り難し(ありがたし)」の連用形「有難く(ありがたく)」がウ音便化したもの(by Wikipedia)だそうです。

 

 文字通り、「有る」事が「難しい」事なので、滅多にない事、「当たり前」でない事が「有り難い」事なのです。
 

 そして皆が当たり前と思っている事は、実はほとんどが「有り難い」事なのです。
 

 先日、あるお檀家さんとお話をしていると、日々何もなく過ごしていて、つまらないと思っていたけれど、主人が病気になり、入院してその看病をするようになった現在、あの何もない日が実は「有り難い」事なんだなあと実感したと、おっしゃりました。
 

 全くその通りであり、夫婦が家族が皆が健康で、仲良くいられる事、当たり前と思い普段はなかなか感謝も出来ませんが、それが実は一番有り難い事なのです。

 今、自信を無くし、自分なんて存在する意味がないと悩んでいる人もいるでしょう。
 

「あなたがあなたである事」、それがすでに「有り難い」事を認識し、周りの存在も有り難いと気付いた時、世界が違って見えてくるでしょう。


 

 生きている時、健康なうちにその万物の有難さに気付く事、それをお手伝いするのが仏教なのです。

平成30年3月  鬼にも家族があった!

 「ボクのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました」

 衝撃的なキャッチコピーですが、岡山県の道徳教育で使用される題材として先月話題になりました。

 

 なんでも、多様な価値観・異なる視点から物事を見る事の大切さを学ぶのだとか…。

 

「もし桃太郎が鬼にも家族がいることを知ったら、どうしたいと思うだろうか」

というような切り口から、やっぱり鬼退治をすべきだ!とか、話し合いで解決を!とか、鬼に技術支援だ、農業・漁業を教えて、人を食べなくてもいいようにしよう!とか、皆でアイデアを出し合ったのでしょうか…。

 

 この記事を読んで、鬼に人間の価値観が通用する訳ないでしょうと思ったあなた、実は通用するんです!

 

 

 妙経寺(だけでなく日蓮宗の寺院の殆ど全て)にお祀りしてある鬼子母神・十羅刹女は、鬼(正確には鬼神:鬼の神様)なんです。

 子供を食べていた悪い鬼がお釈迦様のお力により、仏道に帰依し、悪鬼から善鬼に心を入れ替え、法華経の修行者(皆様ですよ)を、お守り下さるようになり、鬼子母神と呼ばれるようになったのです。

 

 

 なので、日蓮宗の各お寺で行われる節分会に於いては、「福は内」のみで、「鬼は外」は言わないんです。鬼子母神様が出ていってしまいますから。

 

 

 多様な価値観・異なる視点は確かに大切ですが、上記のような仏教・法華経を中心とした価値観もやはり素晴らしい、神様・仏様の由来の話はこれ以外にも沢山あります。

 

 

 皆様に神仏に興味を持って頂く、一助となれば幸いです。

平成30年2月  恵方巻に想う

 節分には恵方巻を食べるという事が、いつの間にか定番になってしまいました。と言いますか、されてしまいました。

 恵方巻の起源は諸説ありますが、土用丑の日にウナギを食べる事ぐらいの意味合いしかなさそうです。

 

 

 まあ固い事を言わずに、皆で楽しめばいいじゃないかという意見もあるでしょう。その通りで恵方巻を否定するものではありませんが、大量の恵方巻の廃棄問題もあり、意味の無い事に振り回されすぎる事も考え物です。

 

 テレビをつけると、各界の不祥事や理事選の話、未だネチネチと続ける忖度問題。ああ、日本は平和すぎるのでしょうか、それとも面倒な事は見て見ぬふりでしょうか。

 東アジアの国際情勢を見るだけでも、知らせなければいけないニュース、議論しなければいけない事は他に山ほどあると思います。

 

 どうせ食べるなら、恵方巻を頂く前に、目を閉じて気持ちを静め、自身が関わる縁(数多くある食材から恵方巻が作られ、流通し食卓に並ぶまで、あるいはその年の恵方に関係する地域や友人を感じながら)に思いを馳せてから、感謝の気持ちを持って恵方巻にかじりついたらどうでしょうか。

 

 やみくもにかじりつくよりも、恵方巻により【縁起を覚る】ことになるやもしれません。

 

 

 「煩悩即菩提、食欲転じて縁起を知る」となりたいところです。

 

 

 

 

平成30年1月  最後の平成1年間です。

 あけましておめでとうございます。

 

 昨年を振り返ると様々な出来事がありました。

 

 もりかけ問題、九州豪雨、座間9遺体事件、相撲の暴行事件等、ほんとうにこの世の中は良いニュースは無いような気がします。

 

 しかし、本当はこれが仏教の基本的な教えの一つであり、世の中は『一切皆苦(すべてのものは苦しみである)』正に四苦八苦するのがこの世界なのです。

 

ここでいう苦とは肉体的・精神的な苦痛ですが、仏教本来の「苦」とは、楽の苦もあり、諸行無常の苦なのです。

 

つまり、本当は全ての有りようは諸行無常(全ては移ろいゆくもの)なのですが、人生は自分の思うとおりに出来ると思い込んでいるが故に、思い通りにならない事が苦となるのです。

 

 これらを理解した上で、諸行無常を受け入れ、苦を受け入れる事が出来れば、目の前の事に執着せず、一喜一憂せず、苦から逃れ、お釈迦様の目指す覚り『涅槃寂静』に近づく事が出来るのです。

 

 とは言え、言うは易しですが行うは難しです。

 

 私自身とても諸行無常であると、割り切った行動はなかなか出来ません。

 

 しかし、それを頭の片隅に置きながら、生活を出来るようになれば、この世の中の見方ももっと前向きに変わるかもしれません。

 

さて、来年(平成31)は天皇陛下が譲位され皇太子殿下が即位される事に伴い、新元号が制定される予定です。

 

 つまり、来年は新元号元年の年であり、平成1年間は今年が最後になります。

 

 平成最後の1年間を後年振り返った時、平成30年は良い年だったなと思い返す事ができるよう、仏教的に平穏無事な一年を送りたいものですね。

平成29年12月  火宅の世界を生きる

 人の噂も七十五日とはよく言ったもので、十月に飛び込んできた、神奈川県座間市のアパートから九人の遺体が発見された衝撃的な事件もすっかり忘れ去られ、お茶の間は日馬富士の暴力事件一色になっています。

 

 しかしながら、残されたご遺族の皆様の悲しみが癒されることはありません。私たちは、この凄惨な事件を踏まえどのように私たち自身が振舞って行かなければいけないのかを自問自答しなくてはなりません。

 

 先日久しぶりに電車に乗って驚きました。乗客のほぼ全員が、スマホを操作していました。眼を瞑っている人以外で、本を読んでいる人は私と年配のご老人と小さな女の子の3人だけでした。

 

 それが現在の在りようであり、SNSの繋がりが若い人にとっては楽しいようです。今年の流行語大賞は確か「インスタ映え」だったと思います。

 

 人とアナログに付き合うのは確かに面倒臭い面もあるかもしれません。しかし、本来人生とは泥臭い物であり、この世の中は四苦八苦が充満した世界なのです。

 

 

 自分の悩みは家族も友達も誰も分かってくれないと悲嘆に暮れている人は多いと思います。

 

 そんな時、ネットにその思いを吐露すると、顔の見えない匿名の誰かが言葉巧みに近寄って来ます。

 

 本当に善意から相談に乗ってくれているか悪意からかを見分ける事は、特に10代の若い人たちには難しい事と思います。

 

 

 この世の中には良い縁と悪い縁が充満しています。その縁をある程度見極める事が出来るようになるまでは、家族や先生、友人と言ったアナログのネットワークの中で生きる術を学ぶべきです。

 

 お釈迦様とて初めからお悟りになっていた訳ではありません。様々な経験・修行・思索を重ね、上記の苦を滅する法を見つけ出したのです。

 

 私たちは、様々な先達・師匠・ご先祖様の智慧を学び、経験を積み、この火宅のような世界を生き抜いていくのです。

 

 そして火宅の様な世界も別の角度から見れば悪くない物です。

 

 法華経の中に「如来は已に 三界の火宅を離れて 寂然として閑居し 林野に安処せり」とあります。

 

 お釈迦様は火事の家を去り、林野で暮らしたのでなく、火宅の如き四苦八苦の充満する三界に居ながらにして、静かな林野で暮らしているが如く、泰然として布教を続けられたのです。

 顔も知らない初めて会う人の家に行くなら、勇気をもってお寺にお話に行ってみてください。

 お寺はお葬式や法事をする事だけが仕事をではありません。

 確かに、僧侶も未だ修行の身、完全に悩みを解決できるアドバイスはできないかもしれません。

 でも、解決に繋がる鍵・糸口は必ず見つけられると思います。

 悩める人に寄り添う事、それが僧侶の本来の仕事・生きざまなのです。

 そして、それにより私達僧侶も成長させていただくのです。

平成29年11月  日蓮大聖人様は革新だったのか?

 衆議院選挙が終わりました。

 選挙結果についてあえて意見は述べませんが、選挙中度々次の言葉を耳にした事と思います。「保守と革新(リベラル)」あるいは「右派(右翼)と左派(左翼)」です。

 

 意味合いは

  「保守(右翼)」➡【より安定した社会を目指すための社会制度を支持する層】、

  「革新(左翼)」➡【より平等な社会を目指すための社会変革を支持する層、社会主義】だそうです(by Wikipedia)。

 

 私のような40代は、自民党は保守、共産党、社民党は革新、民進党はごちゃまぜなので中道というようなイメージが一般的だと思います(だからごちゃまぜの民進党は左右に分裂したのですが…)。

 

 さて、読売新聞と早稲田大学の世論調査によりますと、29歳以下の若者は保守が公明党、中道右派が共産党、自民党が中道、維新の会が革新というイメージを持っているそうです。

 

 世代の違いによるイデオロギーの考え方に驚きました。なるほど、若い僧侶の方と政治談議をしている時に感じる違和感が調査に現れています。

 

 単純に「右翼」を現状維持する保守勢力とすれば、憲法の改正、消費税率の変更に反対する、共産党は「保守」なのであり、それらを改正しようと社会変革を目指す維新や自民党は確かに「革新」勢力ですね。

 

 斯様に時代が変わればイデオロギーなんて180度変わってしまうので、右派左派、保守革新のレッテルに囚われず、日本が進む方向を私達自身が考え、一番より良い(かつポピュリズムでない)政策を打ち出す政党を支持する必要があります。

 

 先月も書いたように、それが私たちの行える諫言なのです。

 

 さて、日蓮大聖人様は当時の鎌倉時代において保守だったのか、革新だったのかは、長くなり過ぎたので、来月書きたいと思います。

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 この文章を書いている時、大変なニュースが飛び込んできました。何やら複数の遺体が部屋から発見されたとの事で、

治安の悪い外国の話かと思いきや日本のようです。

 我々はこの衝撃的な事件をどう受け止め、如何に行動しなければならないのか。

 僧侶はこういう時、どうすればよいのか。私自身整理しきれていませんが、今後少しづつ記していきたいと思います。

平成29年10月  大義とは・・・

 大義とは何でしょうか。辞書で意味を調べると「人として大切な意義、大切な事柄」云々とあります。

 

 先日安倍総理が衆議院議員を解散すると発表しましたが、その時野党もマスコミも解散の「大義」が無いと口を揃えて言いました。

 

 しかし、実際に選挙を行うとなると支持率低迷に悩む野党第一党は新参の希望の党になだれをうって駆け込みました。そこには党として一政治家としての信念・政策・理念、もとい「大義」はありませんでした。

 

 

 さて、仏教なかんずく日蓮宗としての「大義」とは何でしょうか。それは言うまでもなく、お題目の信仰を広め、究極的にはこの世を浄土にする事です。

 日蓮大聖人様は災難・天変地異の続く、鎌倉の時代に於いて、幕府(国主)が正しい教えを信仰しないから、諸天善神は日本を見捨てている。

 このままでは他国侵逼(他国からの侵略)・自界叛逆(国内の内乱)難が起こると予言され、日本を良くしようと幕府へ諫言を行い。法難に遭います。そして予言通り蒙古が襲来しました。

 

 今現在の世情を見ますと、日本の上を他国のミサイルが飛び、国内政治は「大義」を忘れ混乱しています。

 

 今こそ、私達日蓮宗僧侶・檀信徒一同は祖師の「大義」を思い起こし、行動に出なければなりません。

 

 現在の民主主義社会において、私たちの出来る「諫言」は【選挙に行く】、事に尽きます。

 

 一人ひとりは、小さな諫言の行使ですが、皆が信念を持って、本当に国を護り支えてくれる政治家に投票する事で、必ず日本は良くなっていきます。

 

 

 どうか、投票日までの党首・政治家・評論家の話に耳を澄ませ、この人と思う候補者に投票をお願い致します。

平成29年9月 

 今年も西日本は猛暑の夏になりました。

 

 お檀家さんから「エアコンのリモコンが動かなくて大変な暑さでした。娘に電話をすると、電池を換えなさいっていうけれど、リモコンに電池が入ってるなんて初めて知りました。裏の蓋を外して電池を交換して!と言われてもどうしたら外れるか、全く分からずに本当に苦労しました。」というお話を伺いました。

 笑い話で済みましたが、当たり前のように使っているリモコンが動かなくなり、その有難みにやっと気付いたのです。それにしても長持ちした電池だったんでしょうね。

 さて同じように普段は気にしませんが、自身の健康や、家族の健康も病気になって初めて健康の有難さが分かるのです(健康だけに限りませんが一例として)。

 有難(ありがた)いとは有ることが難しい、つまり珍しい・困難という意味です。そこからもったいない、めったにない事という感謝の気持ちを表す言葉となりました。

 「あーありがたや、ありがたや」や「ありがたく頂戴する」というように使いますね。

 当たり前の事を有難いと思えるようになる事。自分は一人で生きているのではなく、周りの事象との関連(縁起・諸法無我)の中で生かされているとわかる事。それは難しい事ですが、お題目の信仰生活を続けていく事によって少しずつ理解していく事のように感じます。

 私自身もまだまだその途上です。

平成29年8月 

 村八分という言葉があります。「地域の生活における十の共同行為のうち、葬式の世話と火事の消化活動という、放置するとほかの人間に迷惑のかかる二つ(二分)以外の一切の交流を絶つことをいう」そうです。

 

 昨今の社会では、近所・区(隣保)の行事及び冠婚葬祭は面倒であるとして、一切関わらない人が増えているそうです。そのような態度では、その人が「村八分」になっても仕方がありません。

 

 私達が地域社会と関わるのはボランティアではありません。

 

 近所付き合いというものは、もっと泥臭いものであり、面倒臭いものでもあります。しかし、それによってこそ、自分や地域社会の成長があり、日本古来よりある伝統の良さが保たれるのです。

 

 そこには相互扶助(助け合い)の崇高な精神があります。

 今月はお盆です。さあ皆さん菩提寺へお参りに行く事も大切な行事ですよ。

 面倒なんて言ってはいけません。

 

平成29年7月 

 7月2日の夜は全国の茶の間から「あーっ!」という落胆の声が聞こえて来たようでした。

 将棋の棋士、藤井聡太四段の30連勝の自己記録更新はなりませんでした。

 

 誠にこの世は諸行無常、勝つ時もあれば負ける時もあります。

 

 そして負けて周囲の誰よりも、本当は本人が一番悔しいはずなのに、敗戦後のあの落ち着いた受け答え。

 素晴らしい若者が現れました。

 

 早速、部屋の片隅に在った将棋盤を引っ張り出してきて将棋をしている息子たちを見ながら、「藤井君と1年しか違わないのに、えらく差がついたなあ」とぼやく私に、家内は「あなただって、イチローと同い年なのに、随分と差がついていますね」との事。全くその通りであります。

 

 

 齢40を超えながら、僧侶でありながら毎日を一喜一憂しながら生き、貪瞋痴・三毒の煩悩の海の中で溺れている私としては、恥ずかしい限りです。

 

 

 この藤井聡太四段の振る舞いに、ほぼ全ての日本人が共感出来た事。これが私たちの心の奥底にある、仏様の心です。

 

 さあ感動できたあなた!あなたも人として仏様として藤井さんのように行動していきましょう。

 

 

 私も頑張ります!

平成29年6月 

 「手段の目的化」という言葉があります。本来は目指す目標(目的)があり、それを実現するための方法として手段があるのですが、やがて行う事自体が目的となり、本来の目標・理念を見失う事を言います。

 憲法9条の改正について議論が沸騰していますが、日本国憲法、就中9条に於いては、「国際平和を誠実に希求する」のですから、世界平和が【目的】であり、その為の所謂平和憲法はその平和を実現する為の【手段】なわけです。

 ところがこれがいつの間にか「手段の目的化」となり、【手段である平和憲法】を守る事が、憲法改正絶対反対と左派勢力の【目的】となってしまいました。

 世界平和という目的を達成するためには、手段の憲法は時代の変化に合わせ、むしろどんどんと変革させた方が、本来の立憲主義だと思うのです。

 お寺について言えば、最近御朱印を頂くという事が流行しているようです。

 参拝(信仰)の証として御朱印を頂くのが本来の在り方ですが、印を頂く事が目的となり、御朱印を頂いただけで、参拝をせず帰る人もいらっしゃいます。正に本末転倒であり、手段が目的となっているのです。

 参詣をし信仰を深めその証として御朱印を頂き、更なる信仰を続ける事。そして皆が信仰を持ち幸せになる事。それが一言でいう仏教の本当の目標なのです。

平成29年5月 

 「どんな髭剃りにもその哲学がある」とは小説家村上春樹さんのエッセイからの引用です。「どんな些細な事でも毎日続けていればそこにおのずから哲学が生じる」 ⇒ 極論すれば、【どんな些細な事にも意味がある!】ということでしょうか。

 

 五月になり、新入生や新社会人として迷いのある人、あるいは現状厳しい状況に置かれている人も、ここが踏ん張りどころです。

 

 取り敢えず何も考えず続けましょう。毎日を継続しましょう。日々の積み重ねが貴方を支え、磨き、未来を拓きます。

 

 

 しかし、続けるという事は本当に大変な事なのです。

 

 髭なら毎日生えてくるので、剃るしかありませんが、髭が滅多に生えてこないとしたら、毎日髭を剃る事を続けられる人はほんの一握りだと思います。

 

 

 お寺に一度お参りしたからといって、宝くじが当たったり、合格したり、病気が治ったりする事も滅多にないでしょう。

 

 お参りを続ける事(それを私は信仰の貯金と呼びます)により、そこから哲学(本当の信仰)が生まれ、やがてそこから大きな果実(ご利益)を頂く事が出来るのです。

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 でも本当に耐えられない時は無理をせずに、休んじゃってください。その線引きは難しいですし、環境や人によって違いますが、1年若しくは半年は頑張ってみて下さい。

 私のつたない人生経験からしても、数か月、数週間は少し早いような気がします…。

 

 そして辛い山を越せば人はより遠くを見通す事が出来るようになるものです。

平成29年4月 

 先月栃木県で登山訓練をしていた高校生が雪崩に遭い、複数の生徒と先生が亡くなるという大変痛ましい事故が起きました。お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

 この遭難事故は自然を甘く見た先生による人災の様相を呈しているようですが、私が申し上げたいのは、先生方の判断・準備についての個別の意見ではなく、事故をうけての栃木県教育委員会の対応です。

 3月29日付の新聞記事によると「栃木県教育委員会は今回の雪崩事故を受けて、県内高校生の冬山登山を全面的に禁止する方向で検討に入った。」とあります。

 まさに責任逃れの為の「禁止」のような気がします。確かにスポーツ庁が高校生の冬山登山を原則禁止にしていますが、栃木県高体連は強い想いと意志があって、冬山講習会を続けてきたようです。

 ならば、ビーコンを必ず携帯させる、危険な斜面に近づかない等の安全管理を徹底の上、続ければ良いと思います。

 ある程度危険な場面を想定させて危険に対処できる様にしておかないといざという時の対応が出来なくなってしまいます。

 

 

 これと似たような話が、夏になると良くある川や海にレジャーに来た人が溺れて亡くなるケースです。

 私は岐阜県の清流がある田舎出身です。学校にプールは無く水泳の授業は川で行います。夏休みは毎日川で泳いでました。中学生になると深い淵や流れのある場所で泳ぎ、今から思えば若気の至りですが、大雨で増水した後の茶色に濁った川で泳いだ事もあります。

 普段より流れは圧倒的に早く、噴き出す流れや引き込む流れを五感で感じながら、下流の激流に呑まれたら終わりという危険を察知しながら一所懸命に泳いでいました。

 川を熟知し、けれど侮らず川を楽しんでいました。その危険を知らず、川で遊んだ経験が殆どない人ほど危険察知が遅れ手遅れになる事が多いような気がします。

 行政もまた池や沼で事故が起こる度に、フェンスを張り遊泳禁止にします。その方が責任の所在が明確になり確かに楽でしょう。その結果、フェンスだらけの自然が増えているのです。

 

 本来は親子で遊びながら危険を小さい頃から教えるべきなのですが、現在では全て禁止しろという、自分で考え行動する事を放棄した人も多くなっているように思われます​

 しかし、本当にそれで良いのでしょうか。 

 それを突き詰めれば国防にも通じます。平和ボケでこの国をどうしたいという強い信念が無ければ、いざという時右往左往するだけで何も出来ないという事です。

 私達一人一人が日蓮大聖人様のように、「我日本の大船とならん」の志を持ち、主体的に行動しなければいけないのです。

 

平成29年3月 

 先月の続きで私たちが最終的に目指す所を今月お話しようと思っておりましたが、世界は私が思うよりも遙かにダイナミックに動いておりまして、それはまた別の機会にしたいと思います。

 さて、高校の卒業式を控えた娘(まだ1年生です)が、私にこう尋ねました。「お父さん卒業生に蛍の光を歌うんだけれど、知らないから教えて」。

 その言葉を聞いてひっくり返りそうになりました。息子たちに尋ねても歌ったことがないようで、最近の小中学校では【蛍の光】を歌わないんです。

 何故蛍の光を歌わなくなったのか、調べてみるとそこには怪しいイデオロギーの胎動が見えてきます。

 蛍の光にはよく知られている1、2番の他に3、4番の歌詞があるんです。それは以下のとおりです。

 

1番

 蛍の光 窓の雪
 書読む月日 重ねつつ
 いつしか年も すぎの戸を
 開けてぞ今朝は 別れゆく

 

2番
 とまるも行くも 限りとて
 互みに思う 千万の
 心のはしを ひとことに
 幸くとばかり 歌うなり

 

3番
 筑紫のきわみ 陸の奥
 海山遠く へだつとも
 その真心は へだてなく
 ひとえに尽くせ 国のため

 

4番
 千島の奥も 沖縄も
 八洲のうちの まもりなり
 いたらん国に いさおしく
 つとめよわがせ つつがなく

 

 うーん。戦前の軍国主義の色彩が色濃く反映された歌詞ですね。

 しかし、国を守る事は当然の事です。現代に歌っても特に問題ないような気もします。

 

 

 しかも最近は【仰げば尊し】も歌わないようです。「仰げば尊し我が師の恩」。

 強制的に先生を尊敬させるのか!という意見があったそうですが、勘違いも甚だしい、我が師が先生だけとは限らないと思うのですが…。

 悪平等主義ここに極まれりですね。

 最近の卒業式定番ソングは【旅立ちの日に】だそうです。全然わかりません。

 老若男女皆で歌えないのは残念な事です。

 蛍の光・仰げば尊しを歌わない本当の理由は分かりません。私の邪推なのかもしれません。ですが敢えて歌わなくなったとすれば残念な事です。

 政教分離が叫ばれ、教育の独立独歩を認めすぎた結果、責任を果たさず権利ばかり主張し、古き良き伝統・文化を破壊するような事態になってしまったと思うのは考え過ぎでしょうか。

 巷間ニュースを騒がす【教育勅語】を暗記しなさいとは言いませんが、教育者は教育基本法第二条を肝に銘じて職務に励んで頂きたいものです。

      教育基本法

 

第二条  

 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。

一  幅広い知識と教養を身に付け真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。

 

二  個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との

   関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。

 

三  正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画

   し、その発展に寄与する態度を養うこと。

 

四  生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。

 

五  伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に

   寄与する態度を養うこと。

申し訳ありません。今月も法話でなくなってしまいました。

しかし、僧侶だって政治・教育に一言申したい。

できる限り宗教的バックボーンに基づいた諫言をしたい。

そういうスタンスで行きたいと思います。

物言う僧侶になる!です。

 

平成29年2月 

 いやーすごいですね。トランプ大統領の暴走が止まりません。

 とは言え大統領になった途端に横暴になった訳ではありません。

 

 選挙の時に言っていた事を忠実に実行しているだけなんです。それはそれで大問題なんですが。

 

 しかし4年間は我慢しなければいけません。何と言っても選挙で当選し、公約を実行しているだけなのですから。それが民主主義・法治国家なのです。

 

 かつて日本にあった国民に聞こえの良い事ばかり言って(子供手当・ガソリン値下隊・高速道路無料化etc.)殆ど何も実現できず、あまつさえ体当たりしてきた外国漁船の船長を地方検察庁独自の判断(裏で当時官房長官の指示あり)で勝手に国外退去措置(法治国家じゃないですね。仏像を返さない韓国の事を笑えません。)とした某政党よりはよっぽど芯のある根性の座った政治家だと断言するしかありません。

 

 

 さてそんなトランプ大統領ですが、昨年10月の法話でも話していますが、その政策は貪・瞋・癡(とん・じん・ち)の三毒(煩悩)にまみれています。欲望に溢れ・怒ってばかり・おろかという事です。全ての政策についてではありませんが…。

 

 アメリカの大統領なのですからアメリカの国益を重視する事は当然必要なのですが、目先の利益ばかりにこだわると結局は長期的な不利益を被る事も忘れてはいけません。

 

 結局はトランプ大統領は最終的に何を目指すのかという事です。

 

 

 アメリカが利益第一で儲けた後に目指すものを具体的なビジョンとして挙げてもらえば世界は納得する筈です。

 それは先月お話した「日本第一で何が悪い」にも関係してきます。

 

 

 今月は全く法話ではありませんが、長くなりますので我々が最終的に目指す物・所について来月お話したいと思います。

 

平成29年1月 

 あけましておめでとうございます。

 

 日蓮大聖人様は「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならん、我日本の大船とならん」と誓願をたてられました。

  

 大聖人様は日本を支える太い柱となり、正しきを見極める目となり、大衆を乗せる大きな船となって、日本を救済する。つまり仏法・法華経を興隆し、この世を浄土たらしめんとする非常に大きな決意をされたわけです。

 

 ここで私が注目したいのは、「日本の」という部分です。大聖人様は「世界の柱・目・大船とならむ」とは言っていません。また、日本で栄えた仏法は日本から西へ向かいアジア・全世界へ広がっていくと予言されております。

 

 そうです。大聖人様はまず日本が栄えなければならないと仰られたのです。誤解を恐れずに言わせて頂くと「日本第一」。日本が滅んでしまったら何の意味も無い。と考えられたのです。

 トランプ大統領が間もなく就任します。世界には保護主義の嵐が吹き荒れています。それに併せ日本も保護貿易をという訳ではありません。

 

 現在日本に保守・革新のような様々なイデオロギーをもった団体が存在しますが、特に所謂左派と呼ばれる団体の中には、日本人でありながら日本嫌いの団体が多いような気がします。コミンテルン日本支部というような考え方が底流にある人々が、平気で日本を貶める・辱める事に非常な違和感を覚えます。

 まず日本が栄えなければならない。日本第一主義で何が悪い。西欧のスタンダードに全てを併せる必要はありません。日本の価値観を世界に広げる位の意気込みで自信と意気込みを持って過ごしたいものです。

 何よりも、大聖人様がそう仰っておられるのです。

 本年も宜しくお願いいたします。

 

平成28年12月 

 先月、お寺に修行に出された少年が住職に叩かれたというニュースが話題になりました。

 ニュースを詳しくは知りませんので仮定の話ですが、親も手を焼く子供をお寺に預け、「きっちりと躾をして下さい」と言われ、その子が布団部屋に隠れて煙草を吸っていたとした場合、【指導】と称して叩く事はそんなにいけないことでしょうか。火事になったり、人が亡くなったりする可能性もあるのです。

 程度問題はありますが、そこに子供の更生を願い、愛情を込めて敢えて指導をした場合(それには当然、言葉で言えば分かる年齢かつ、かつ自分のした行為がどれほどいけない事なのかと分かる年齢なのにそれでも悪い事をした場合に限ります)、それは必要な行為なのかもしれません。当然、本来は親がそれをすべきなのですが…。

 また、物理的な暴力を絶対的に禁止すると、そのフラストレーションは言葉の暴力になり、ネット上の暴力となり、暴力はより一層見えにくく、複雑化していきます。

 

 子育て、愛情、教育、指導。子供を過保護に育てれば良いものではありません。

 

 

 日蓮大聖人様はこう言われました。

「泰山に昇らずんば天の高きを知らず深谷に入らずんば地の厚きを知らず」

【高い山に登らないと天の高い事がわからない、深い谷に降りなければ地の厚い事が分からない】。

 

 ようするに人は実際に苦難を経験し、それを乗り越えて、成長していくのです。

 

 人が何の抑揚のない人生を送ったとしたら、それはとても不幸な事です。身の回りのささやかな機微が幸せと感じられないからです。

 

 

 甘やかされ育った子供が非行・引きこもり等に走る(←ちょっとステレオタイプと思いますが一般的に言って)のは本能的にこのままではいけないとの思いから、方向は違えど敢えて苦難の道に飛び込んでしまったのかもしれません。

 

 

 何でも決めつけてしまい、絶対的に禁止してしまう、現代日本の原理主義的な姿勢に疑問を呈さずにはいれらません。

 

平成28年11月 

 現代は不寛容社会と言われて久しいです。

 後ろからこっそり携帯で写真をとり、SNSにアップし炎上させる。

 素直に「それは如何なものでしょうか?」と問いかければ、その場で終わりな事も沢山あると思います。

 それをせず、面従腹背で裏でこそこそ行う。

 だから知らないうちに東京オリンピックの費用は3兆円を超え、豊洲市場の地下には盛土がなく、地下空間になってしまうのです。

 

 フィリピンのドゥテルテ大統領の物言いが話題になってます。なかなか策士の発言だとは思いますが、何となく気持ちの良さを感じていいる人も多いのではないでしょうか。

 それは昔は居た、「こらっ」と怒ってくれた近所のおじいちゃんに通じるところがあるからだと思います。

 日本では絶滅してしまった、言いたい事を言いたい時に素直にもの言う人。

 

 そうです。今こそ、私達僧侶にその役目が求められているのです。

 物言う僧侶に私はなる!

 

平成28年10月 

 【瞋(いか)るは地獄 貪(むさぼ)るは餓鬼 癡(おろ)かは畜生 諂曲(てんごく:こびへつらう)は脩羅 喜ぶは天 平(たいら)かなるは人なり】

 

 これは日蓮大聖人様が残された、私達の心中の世界を著した言葉です。

 

 身の回りの様々な出来事に一喜一憂してしまう。そこに自分の中の地獄や畜生の気持ちが現れてきます。

 

 常に平常心でいられること、それが「平らかなるは人なり」なのですが、実際問題それが難しい。

 私も子供達に瞋り、妻にはこびへつらい、仏心どころか、日々心は千々に乱れてます。

 そんな自分の心をリセット出来るのは、本堂にてお釈迦様、お祖師様の御前にてお勤めをする時です。

 日々のお勤めにてふらふら彷徨いかねない魂を真っ直ぐに引き延ばします。

 現代の煩雑な日々を生きる皆さま。だからこそお寺や仏様があり、ひとはそこに心の安らぎを求めるのです。

 どうぞ、お寺にお参り下さい。

平成28年9月 

 オリンピックが終わりました。

 日本選手も含め、全ての選手がとても頑張る姿に心打たれました。

 オリンピックの様な世界最高の舞台で4連覇するその才能と、その間継続してきたであろう不断の努力の日々を思うと頭が下がります。

 それに対して、勉強も運動も全て中途半端にこれまで生きて来た自分を振り返ると恥ずかしいばかりです。

 こればかりは「中道がいいんです!」とは言えません。中道と中途半端を混同してはいけません。

 日蓮大聖人様は虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となし給え!」と誓願されましたが、神頼みだけでなく、一切経を読破・研究されるなど、大変な努力・修行をし、立教開宗されるのです。

 勉強も運動もだめな私ですが、「信仰だけは負けない!」と言えるよう、日々精進を続けたいのです・・・。

 それでさえ、大難四ヶ度を受けながら、信仰の揺るがない大聖人様の足元にもお近づけないのですが。

平成28年8月 

 世間ではポケモンGOというゲームの話題でもちきりです。

 その世界観、面白さを私は全く理解できません。

 一度スマホにしながら再度ガラケーに戻しました。

 SNSにも全く興味が持てません。

 車はMTじゃないと面白くありません。

 

 どうやら私は旧世代に属する人間になりつつあるようです。

 

 言い換えれば、若者から「おっさん」と呼ばれるような世代にどっぷりとはまっている事に、今回のポケモンの騒動にて否応なく認識されました。

 

 しかし、古さで言えば仏教はブッダが誕生して約2500年!

 他の世界宗教と比べても圧倒的に古いんです。歴史があるんです。

 古くても続いて来たという事実が、正しい教えである事の傍証でもあります。

 誰でも古い人間(年老いた人間)になりますが、正しい人間で在り続けたいですね。

 

 ポケモンGOをやる事は全く構いませんが、ながらスマホや運転中のスマホ、マナーを守れなくなるまで熱中してはいけません。やっぱりほどほど(中道)が一番です。

平成28年7月 

 6月の九州は例年になく雨が続きました。

 雨は一般的に嫌なものと思われていますが、梅雨があるから夏の渇水が来ません。

 

 同じ雨でも通勤中のサラリーマンと田植え中の農家では思いは全く違うでしょう。物事には常に二面性があるのです。

 

 自分に都合の良い面ばかりに囚われず、もっと離れた視点(仏様の視点)から、世界を見ると在り様は違って見えるかもしれません。

 

 しかし雨の降りすぎは災害に繋がります。やはり物事は中道(ほどほど)が一番良いのですけれど。

平成28年6月 

 5月の続きのお話です。​日本中のお寺や神社で日々、天下泰平・国土安穏の祈願をしている筈です。その数はお寺・神社併せて15万にものぼります。しかし、地震・洪水・飢饉など、災害は打ち続きます。

 ここで、神も仏もあったもんじゃないと信仰を捨て去るのは簡単です。しかし、信仰をすて古くから伝わる、伝統や慣習を不必要と棄て、日本人が日本人で無くなった先には、本当のこの世の地獄が訪れます。

 厳しい災害の中、そこに集い助け合う人々、ボランティアの姿、日本が一つになる姿に、仏様の慈悲の姿を感じることが出来た時、そこに真の霊山浄土(天国)が顕れるのです。

 どちらが日本の姿として好ましいかは言うまでもないでしょう。

 私達は試されているのです。信仰を棄てるか、より強盛(ごうじょう)の信者となり、歯を食いしばって歩みを進めるかの。

 皆さん、勇気と自信を持って、突き進みましょう。

平成28年5月


 先月は熊本で大地震があり、ここ杵築市でも震度4を最高に何度も地震がありました。

 

 幸いにして妙経寺には特に被害はありませんでしたが、被災された皆様には衷心よりお見舞い申し上げます。

 

 さて、日本中のお寺が日々、国家安穏・天下泰平を祈念しているはずなのに、どうしてこのような大災害が起こるのでしょうか?僧侶としてこの問いかけを避けて通ってはいけないと思います。

 

 

 日蓮聖人様の時代も打ち続く災難があり、仏法の興隆と比べ、国は荒廃し・民は飢えていました。

 

 どうして神仏はこの国を助けてはくれないのか・・・。

 

 

 日蓮聖人様は、それを本当の仏教の教え・法華経が弘まっていないからだと看破されました。

 

 現代ではどうでしょうか?より一層のお寺離れが進み、僧侶は堕落していないでしょうか。

 

 

 世界が法華経に包まれれば、私たちが存在するこの現在の地が本当の浄土(天国)になるのです。

 

 

 被災地の速やかな復興はなによりも大切なことであり、私達も最大限協力していかないといけないのは勿論ですが、

 

 

 今一度、私達は自分たちの振る舞いを振り返り、一層のお題目・法華経の信仰に励まないといけないのです。

 

 

 

 

平成28年4月

 

 聖徳太子は法華経を日本に広めた第一人者ですが、十七条の憲法は特に有名ですね。

 

 第一条「和を以って貴しとなす」

  (和をなによりも大切なものとする)は大変有名な言葉ですが、では次はなんでしょうか?

 

 第二条「篤く三宝を敬え。三宝とは仏と法と僧となり、則ち四生の終帰、万国の極宗なり。」

  (あつく三宝(仏教)を信奉しなさい。三つの宝とは仏・法理・僧侶のことである。それは生命ある者の最後のよりどころで

   あり、すべての国の究極の規範である。)

 

 仏教が日本に伝来してわずか百年程の日本において、太子は仏教の本質を見定め、第二条に早速取り入れたのです。

 

 

 振り返って、現在の日本を見てみますと「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない(所謂・政教分離)。」の名の下、徹底的に政治と宗教が分離しています。

 

 

 解剖学者の養老猛さんも仰るように、上記原則により、解剖献体者の為の慰霊施設も作れないというような、へんてこな状況になっています。

 

 

 過去の大戦を見ると、国家神道との分離を図ったその姿勢も理解できなくはないですが、それが日本人というアイデンティティーの崩壊の一翼を担っていることも確かなのではないでしょうか。

 

 

 確かに国家権力と特定の宗教が必要以上に結びつくことはいけないことですが、儀礼的でも伝統を守って・取り入れて頂きたいというのが、偽らざる気持ちです。

 

 

平成28年3月

 

 先月、アメリカかの研究所にて「重力波が検出された!」とのニュースが世界を駆け巡りました。

 

 何を隠そう私は、大学で物理学を専攻しておりまして(人生とは分からない物で、お坊さんになるのならもっと古典や漢文に慣れ親しんでおけば良かったのですが…)、当時は科学で全ての世の中の仕組みを説明できるようになる!私がして見せる!なんて思っていました。

 

 なので、アインシュタイン大先生が一般相対性理論から帰結され、予言された重力波を約100年後に漸く観測できたということに、非常に感銘を受けました。

 

 ですが、これも若輩ながら言わせて頂ければ、出家して十数年になりますが、観測できる・科学的に説明できることが全てではない。ということも身をもって体験してきました。

 

 それを不思議とか神秘とか救いとかの言葉で終わらせてしまうのは、以前の自分の立場からすると変節と思われるかもしれません。しかし、確かに救いは存在するのです。

 

 

 重力波では、地球と太陽の距離が分子1個分縮むという解説もされていました。

 こんな僅かな変化を観測し、一体何の意味があるのかと思われると思います。

 しかし、その変化を読み解くことにより、地球から13億光年離れた場所にある、太陽の50倍程度の質量を持った二つのブラックホールが、互いに引かれ回りながら、その回転周期と半径を縮め、最後には光速の50%程度の速度で合体し、一つになった事が分かったのです。

 

 こんなに沢山の情報がこの僅かな変化の中に、情報として入っていたのです。

 

 これを日蓮聖人様は「事の一念三千」と仰りました。私たちの一念(御題目)には「常寂光土を現前する」為の、全ての要素が詰まっているのです。つまり「思いは通じる」のです。

 

 

 信仰の「思念の波」が空間を伝播し、何らかの作用を与え、それが救いへと繋がる事を科学的に説明できないのは、「重力波」の観測の様に単にそこまで人の科学力が進歩していないからなのか、それともブラックホールの中の特異点のように、もともと科学で説明できない概念なのかも分かりません。

 

 

 いづれにせよ「信仰」とは「科学」に負けず劣らず、人類が生きていく上で必要不可欠なものなのです。

 

 

平成28年2月

 うっかりして2月のお話を掲載するのを忘れておりました。

 本日は閏年の2月末日、29日です。

 

 閏日に法話を書くご縁を頂いたので、少し暦のお話を致します。

 

 さて、明治時代以降、太陽暦が使われるようになり、4年に一度の閏年という言葉もすっかり定着しましたが、江戸時代までは「旧暦」いわゆる太陰暦(月の満ち欠けを1ヵ月とする)を使用していました。

 

 これによると月の満ち欠けの周期、29.53日×12回で一年は約354日となり、現在の一年と11日程、短くなります。

 これが3年たまると約1カ月、実際の季節と暦がずれてしまいます。

 

 なので、3年に1回(正確には19年の間に7回)、「閏月」という1ヶ月を挿入し、1年が13ヶ月となり、暦の修正を行ってきました。

 

 ちなみに上記の理由より、月の周期が29.53日なので、旧暦には31日がありません。旧暦のひと月は29日か30日しかないのです。

 

 月の満ち欠けは、夜空を見上げるだけで視覚的に直感的に分かります。そういう意味ではカレンダーも時計もない時代には、太陽暦よりも身近で分かりやすい尺度だったんですね。

 

 

 

平成28年1月

 

 あけましておめでとうございます。

 

 日蓮大聖人様は「正月の一日は日の初め、月の初め、年の初め、春の初め。此れをもてなす人は、日の東より西へわたりて明らかになるがごとく、徳も勝り人にも愛せられ候なり(十字御書)」と仰りました。

 

 1年にこの時しかない、【1日の、1月の、1年の、春の季節の全ての始まりである元旦】に新たな誓いを立て、信仰に励み行動出来る人は、太陽が東からのぼり、光を増し、この世を照らし出し、暖かくするように、素晴らしい1年になるという意味です。

 

 旧年中はいろいろありましたが「一年の計は元旦にあり!」心機一転、新しい年に勇気をもって踏み出しましょう。そして世の中が良くなるよう、実際に行動していきましょう。

 

 なにも難しく考える必要はありません。世界平和の為に、イスラム国に話し合いに行く必要もありません。

 

 まずは、夫婦から家庭から、和合出来る様勤めましょう。そして、その輪を近所へと広げていくだけで良いのです。

 皆が近所へと和合の輪を広げていけば、全世界が仲良くできるはずのです。

 

 あせらず、ゆっくり行きましょう。wが倒れても、次の世代が繋いでくれますよ。

 

 今年は良い年になりますように。本年も宜しくお願い致します。

 

 

平成27年12月

 

 先月パリで大規模なテロが起きました。

 

 中東は二十世紀初頭にヨーロッバキリスト教諸国により分割統治され、その遺恨はイスラム国となり、現在の泥沼へと続いています。

 

 キリスト(ユダヤ)教・イスラム教の宗教戦争の感があるこの大混乱に、ロシアやトルコ、クルド人、スンニ派、シーア派と複雑に利権や政情がからみあい、壮大なモザイク模様となり、素人が現状を把握できなくなっています。

 

 これは互いが一神教であり他宗を認められないことがそもそもの根本原因であり、過去の歴史もあり、一神教の国々ではこの紛争は治めきれないと感じます。

 

 神道国家が仏教・諸宗派を受け入れた、八百万の神仏を信仰する日本こそが、本来は解決のリーダーシップを発揮出来ると考えるのですが。そのために石原莞爾的な強硬論となってしまっては意味がありませんし・・・。

 

 日蓮聖人は「我れ日本の大船とならん」と喝破されました。本来は日本という大きな船が進む道標を仏教が示さなければならないと思います。【政教分離】と言っている場合ではないのかもしれません。

 

 仏教党、法華党があっても良いと思うのです。ドイツには【キリスト教民主同盟】なんていう政党がありますしね。

 

 うーん。今回は、少し話が過激すぎたかもしれません。

 

 しかし、これは全然法話ではありませんね。私の思いを述べているだけですね。申し訳ないです。

 それでもすこしでも参考になる方がいらっしゃれば幸いです。

 

 

平成27年11月

 

 「理解とは誤解の総体に過ぎない」とは、小説家村上春樹さんの言葉です。

 含蓄のある言葉ですが、現今の社会情勢を見ると、この言葉の重さを感じずにはいられません。面従腹背。表面上平静を保っていても、内実は誤解の塊の可能性があるわけです。

 

 僧侶としても、この言葉にはいつも考えさせられます。「私が法を説くとき、どれだけ皆さんが理解しているのだろうか。そもそも私自身が、仏様・祖師の思いを充分に理解できているのだろうか。」そんな葛藤の中、日々、勉強し、お経を唱え、法を説く日に備え、自己を研鑽しております。

 

 しかし一つだけ自信を持って言えることは、仏様が法を説かれて約2,500年、同じく日蓮大聖人様が同法を説かれて、約800年、この間沢山の宗教が生まれ、消えていったはずです。時の洗礼を受け今まで仏教が受け継がれてきたのは、その教えが「正しい」からに他なりません。皆さん、もっと自分が仏教徒であるということに、誇りと自信を持ちましょう。

 

 ハロウィーンだからとその本質を理解せず、仮装行列をし、「無宗教です!」と簡単に述べてしまうようでは、日本人としてのアイデンティティーも遅からず失うでしょう。それとも私がそういう方の事を「誤解」しているだけなのかなあ?

 

 いやはや「理解」とはやはり難しいものです。

 

 

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