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令和4年8月 とある宗教団体

 

 先月、参議院選挙投票直前に、安倍元総理大臣がテロに会い、亡くなるという、

驚愕の事件が発生しました

 何はともあれ、安倍元総理大臣の御霊が安らかならんことを願います。

 

 さて、それよりも私が感じた違和感は、その直後からある宗教団体に恨みをもっての

犯行とニュースが駆け巡り、名前を伏せていたマスコミは、ある宗教団体の会見と同時に、

自民党とその宗教団体との関連性を大いに叩いた事です。

 

 日本は憲法で政教分離が定められていますが、それは政治家が、お寺にお参りしたり、

例えば妙経寺の落慶法要に来られて、祝辞を述べていけない訳ではありません。

  

 その某団体を擁護する訳ではありませんが、一般に存在を許されている団体である以上、

そこで祝辞を述べても、倫理上問題がある以上の問題はありません。

 同じく、憲法では信教の自由が定められているからです。

 当然、見返りを求めたり、便宜を図ったりしてはいけませんが。

 もし何らかの便宜を図ったりしていれば、それは大きく取り上げて報道して結構です。

 

 しかし、そうでないのなら「何が問題なのか分からない」と発言した政治家が大バッシングされていましたが、

それが正しいのです。

 

 それどころか、この某団体のおこなっていたあやしい運動(ピースロード)に協賛・取材していたマスコミは

自分自身の行いをどう説明つけるのか、あまりにもダブルスタンダードではないのか。

 

 

 あまりにも身勝手で世論を誘導していくマスコミ。新聞とテレビしか見ない高齢者はその裏側を知らず、

報道を鵜呑みにしています。

 

 安倍元総理の国葬反対の世論にも繋がっていきます。

 

 先日は、日本のEEZに中国からミサイルが何発も撃ち込まれました。

これは日本存立の危機ですよ。激怒すべき事態です。

 

 

 しかし日本は、相変わらずの政治家と、とある宗教団体の繋がりを負う事に必死です。

 それをするなとは言いませんが、もっと優先的に報道すべきことがあるだろうという事です。

 

 これではいけないと思いませんか。

令和4年7月 節電の夏・選挙の夏

 

 史上最速の梅雨明けと共に猛暑がやってきました。

 当然、電力需給は逼迫し、政府は「適切にエアコンを使用しながら節電をしましょう。」

誰が聞いても、矛盾している事を言っています。

 

 最近はどこも電灯をLEDにしていると思いますが、もの凄い効率の良い照明なので、

電灯を数個消してもエアコンの電力に遠く及びません。

 

 こて先の節電をするのではなく、化石燃料の高騰、二酸化炭素排出量の削減、原子力発電、

持続可能な成長等をどう考え、長期的な視野に立ったエネルギー政策を考えないといけません。

 

 電力だけでなく、経済、外交、安保など、懸案はたくさんあります。

 

 今月10日は参議院選挙です。

 

 参議院選挙で政権交代は起きませんが、良識の府の議員を私たちの手で選び、

日本を良くする方向へ導いてくれることを期待したいです。

 

 ぜひ投票に行きましょう。

 

 国があってこその、神仏やご先祖様なのですから。

令和4年6月 仏さまはどこにおられるのか?

 

 いきなり余談ですが、私の住んでいた地方では、目上の方の居場所を尋ねる際に

「どちらにおられますか?」と聞くのが一般的でしたが、最近は違和感を感じる割合が

多くなってきたんですね。

 

「仏さまはどちらにいらっしゃいますか?」

 

「仏さまはどちらにおいでになりますか?」

 

 何だか逆におかしいような気がしますが、私が少数派なんでしょうか。

 まあ、気にせずいきましょう。

 

 さて、一神教(特定の宗教を指す訳ではありません)に多く見られる、

絶対的な全知全能の神様がこの世界や人を造った!というような教えの場合、

人は神様に従属するものであり、神様になることは出来ません。

(出来ない場合が多いと思います)

 

 では仏教はどうでしょうか?仏様は人でした。悟りを開いて、絶対的な存在に

なった訳ではありません。

 悟りを開いても人でありました。

 

 文字にするのは大変難しいのですが、仏さまは超人になってしまったのでなく、

その精神性は世間の道理を超越し「不死の門は開かれた」「縁起の理法を悟られた」とおっしゃります。

 それは本当に不死になったのではなく、「死に囚われる」事がなくなったのです。

 

 そして、私たちはその境地に達する事が出来るはずなのです。

 少なくとも可能性はある。ゼロではない。

 

 もっと言えば、私達も人でありながら、仏さまなのです。

 

 この点から言えば、仏さまは私達の心の中にいらっしゃるとも言える。

 

 私達は仏様と一体不二なのです。

 

 これが一神教と仏教との大きな違いです。

 

 

 何となく、仏教を身近に感じられるようになったような気がしませんか?

令和4年5月 一切皆苦

 

 最近、世界は悲しいニュースで満ちているような気がします。

 ウクライナでの戦争

 知床観光船沈没

 山梨行方不明女児の発見

 引き続きのコロナ禍

 ですが、お釈迦様はこう仰っています。

 「この世の一切は苦である」と、厳しい言い方かもしれませんが、

 そういうものなのです。

 また、現実的な、肉体的・精神的な苦痛だけでなく、

 幸福や楽しさなども、それが続かず、無常であるからやはり

苦しみであるともされます。

 そしてその苦を消滅させる手立てが仏教にはあります。

 四諦・八正道等がそうですが、難しくなるので、

そういう方法があるんだと位に思っておいて下さい。

 正直なところ、私もまだまだ苦から逃れられていません。ああ、凡夫。

 いづれにせよ、何とも厳しい世の中であり、さらに突き放すようなお釈迦様のお言葉ですが、

それを現実として受け入れ、さらに前に進むことが出来た時、仏さまの智恵の境地に達するのです。

 それを目指して、進んで行きましょう。

 

令和4年4月 60万年経って

 

 今から六十万年前、人類の祖先、クロマニョン人は洞窟で生活をしていました。

 

 簡単な言葉を話し、道具や火を使っていたそうです。

 

 ある洞窟から、クロマニョン人の骨が発見されました。そしてその骨の周囲から沢山の種類の

花の花粉が見つかりました。

 

 これは何を意味するのでしょうか。そうです。そんな昔の人類の祖先の頃から、死者を悼み、

お花を供えて埋葬する精神文化、宗教の萌芽が見られるのです。

 

 また同時に明らかに故意の傷のある骨も見つかりました。その頃から争いがあった証です。

 それから60万年経ちました。ウクライナの情勢を見ていると、

人間の本質は簡単には変わらないようです。

 

 

 同様に、宗教の必要性も変わらないはずなのです。

 死者を悼み、何かお供えを供養をという気持ちは人類共通の

根本的な不変原理である筈です。

 

令和4年3月 思考停止からの脱却

 

 ロシアのプーチン大統領がウクライナへの侵攻を決断しました。

 戦争は絶対にやってはいけない事ですが、戦争反対と叫ぶだけでは

戦争を防ぐことが出来ないのは、今回の件で良く分かりました。

 

 大統領がお金だけ持って逃げてしまったアフガニスタンと違い、

ウクライナのジェレンスキー大統領が首都のキエフに留まり、徹底抗戦を唱えたことが、

西側諸国の団結を促し、ロシアに対する厳しい経済制裁、ウクライナへの支援へと繋がりました。

 

 一国の指導者の姿が、国民を勇気づけ、国の将来を決定づけるのです。

 

 今回の侵攻を、対岸の火事とせず、我が事として考えてみましょう。

 

 安全・安心でない、私達の本来の行動原理とは。何でしょうか。

 また来月以降記していきたいと思います。

 

 それまでにウクライナが良い状況になっていれば良いのですが。

令和4年2月 惑星と星祭

 

 古来より、夜空を眺めると、普通の星とは明らかに違う動きをする、

私達を惑(まど)わす星がありました。

 

 それが所謂、水金地火木・・・という星、惑わす星「惑星」です。

 

 特に赤く輝く、火や血を連想させる火星、火曜星は凶星を示す黒星となりました。

 太陽や月を表す日曜星、月曜星は幸運を表す白星となりました。

 

 そういった考え方が基となって運気の巡りを表す星廻りとなり、

運気の好転を願う星を供養する祭り、星祭に繋がっていきます。

 科学・医学万能と思われる現代ですが、コロナウイルス一つどうにもできないのです。

 毎年2月11日は当寺では星祭・厄除祈祷会を行います。

 平安時代から続く星祭です。好運気を願ってみては如何でしょうか。

 

令和4年1月 敢えて言おう!

 

 新年あけましておめでとうございます。

 本年も宜しくお願い致します。

 

 今年はもう言ってしまいます。

 「敢えて言おう!オミクロン株は風邪であると!」

 

 先日、お檀家さんに会いに老人ホームに行きました。

 その方は熱心にお参り頂いていたのですが、高齢となり、

同居の家族もいないためホームに入っていたのです。

 

 久しぶりにお会いできることを楽しみに行きましたが、マスクをしている私は

外でスタッフの方としかお話出来ませんでした。直接会う事は禁止されているそうです。

 

 二重になっているガラス張りの玄関の中と外で、互いに合掌し合い、帰りました。

 

 家族が老人ホームや、入院しているおじいちゃん、おばあちゃんに会う事も出来ず、お亡くなりになる。

こんなケースが多発している事と思います。

 

 感染を何としても防ぐという意味合いにおいては、その方針には何の異論もありません。

 

 本当にスタッフの方には感謝の気持ちしかありません。

 

 しかし、オミクロン株の現状を冷静に受け止めれば、蔓防しかり、感染症2類相当の扱いしかり、

やりすぎでしかないと思うのですが、如何でしょうか。

 

 

 臨終を迎えた時、臨終を正念で思念を残さないためにも、最後に家族に会っておくという事は、何よりも、

少なくともオミクロンよりは大切な事だと思うのですが。

 

 

令和3年12月 学問と信仰が人を造る

 

 娘が大学で福沢諭吉の「学問のすすめ」を読む様に言われて、読み終わった娘から本が送られてきました。

 恥ずかしながら、読んだことがありませんでした。

 きっと、学問をする事を奨励しているんだろう位の、浅はかな考えで思考停止しておりました。

 

 読んでみるとこれが素晴らしい。さすが福沢諭吉先生、仰ることが素晴らしい。

 

 例えば、これは誰でも知っている、冒頭の言葉です。

【「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。】

 

 これだけ聞くと、福沢諭吉は平等主義の素晴らしいお方だで終わってしまいそうですが。

 

 「言えり」は言える!でなく、「言われているが、」という感じで読んでください。

 文章はこう続いていきます。(若干の抜粋しています。)

【されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なし。

 されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、

富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。

 その次第はなはだ明らかなり。『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。

されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。】

 

 

 天が人を造ったのなら、万人が平等の筈だが実際はそうではない。

 貧富の差があり、賢人愚人の違いがある。なぜだろうか、それは勉強をしているか、していないかの違いだ。

と学問する事を冒頭からすすめています。

 

 

 仏さまもそうです。仏様は人は平等だとは言っていません。むしろこの世は苦しみだらけと言っています。

富める者も貧しい物も、それぞれの立場にある、様々な苦悩から離れる手段を仏様はお説きになられたのです。

 

 その手段の一つに勉強も含まれると思いますし、当然信仰も含まれます。

 

 結果の平等を求めず、機会の平等を大切にする。勉強する機会を大切にし、結果お金持ちになれなくてもいいんです。

世の中をより広く深く理解することが出来れば、それは自身の立場での幸福となるのです。

 

 学問をし、世の中を広く深く理解する事は、信仰を深める事と一緒です。

 

 学問と信仰の両輪で、この苦しい世の中を乗り切っていきましょう。

令和3年11月 百聞は一見に如かず

 

 【百聞は一見に如かず】

 良く聞く言葉で、百回聞いても一回見る(体験する)ことには及ばない。

 というような意味あいになります。

            

 これだけでも、コロナ禍のオンライン授業だけでは真の授業にはなり得ませんよね。

 すでにこの考えが古いと言われてしまうと困りますが。

 

 脱線しますが、どうして【大学生】だけオンライン授業を徹底的に勧め、

小中高生は対面授業を続けるのでしょうか?

 大学生はそんなにコロナウイルスをまき散らすのでしょうか?

 成人ですから、授業中も大人しく、小学生より学校での感染リスクは低いような気がするのですが・・・。

 何故マスコミはこの話題を取り上げないのか。

 

 もっと言えば、あれだけ子宮頸がんワクチンの副反応を激烈に取り上げ、

ワクチン接種の積極勧奨を中止させた左派マスコミは、どうしてコロナワクチンの

副反応についてはだんまりを決め込むのか。

 

 本当にマスコミは公正中立なのか。社会の公器なのか。

 

 そのダブルスタンダードぶりには首を傾げざるを得ません。

 

 相当脱線しましたが、この言葉には続きがあります。

 

【百見は一考に如かず】

 見るだけでなく、考えないと意味がない。

 

【百考は一行に如かず】

 考えるだけでなく、行動しなければならない。

 

【百行は一果に如かず】

 行動するだけでなく、成果を出さなければいけない。

 

【百果は一幸に如かず】

 成果の中でも、幸せになるような成果を出さなければいけない。

 

【百幸は一皇に如かず】

 自分の幸せだけでなく、皆が幸せになるようにしなければいけない。

 

 これらは中国「漢」の時代に書かれた言葉ですが、さすが中国四千年の歴史!良い事を言われますね。

 

 

 さて、我等が日蓮聖人様ですが、信仰について同じような事を言われております。

 

 

【法華経を余人の読み候は口ばかり、言葉ばかりは読めども心は読まず。

心は読めども身に読まず。色心二法、共にあそばされたるこそ貴く候へ(土籠御書)】

 

 人々がお経を口で唱えるだけで、心から感動して読むことはしない。

 感動して心から読めても、身に読む、自分から行動してお経の世界に飛び込み、

実践の信仰生活を行う。生きていく事、振る舞いをする事の根本を法華経に

依拠していく事は出来ていない。と説かれます。

 

 

聞くだけでなく、見て、考え、行動し、成果を出し、皆が幸せになる。

 

 

漢のことばと日蓮聖人様のお言葉、驚くほど共通点があります。

 

 

 

日々の生活の中から、気づき、考え、行動出来る事は、信仰生活と同一なのです。

令和3年10月 多様性の続き

 自民党の新総裁が岸田さんになりました。新総理になる日も近いでしょう。

 

 来月には衆議院選挙もあります。

 困難の続く日本を上手に導いてもらいたいです。

 

 さて、総裁選でも良く聞いた「多様性」という言葉ですが、多様性という言葉を使う人に限って、

自分の意見を押し通し、人の意見を聞かないような気がしませんか。

 

 しかしそれは、相手の意見も認めるという「多様性」に反していますよね。

 多様性の誤謬とでも言いましょうか。

 

 

 来たる総選挙では、有意義な政策論争を期待したいです。

 

 何はともあれ、菅総理、約一年日本の舵取りお疲れ様でした。

 

 国のトップが変わろうとも、私たちは地道に信仰の歩みを進めましょう。

令和3年9月 夫婦別姓とお墓

 今月は自民党総裁選挙が行われます。現在(9月6日)は総裁選に立候補予定の議員さん達が、

推薦人集めに奔走したり、製作をメディアにて発信したり、にわかに騒がしくなってきました。

 

 そんな中で、「選択的夫婦別姓」云々という話が出てきたりしました。

 

 世間はとにかく多様性の時代です。

 

 夫の「〇〇家代々之墓」に妻が入るなんて、選択肢の一つでしかなくなっていきそうです。

 別に別姓の方が入ってもいいんですが・・・。

 

 そのお墓も樹木葬があり、散骨があり、保守的なお墓に入る、お墓参りなんて概念も変わって

いくのかもしれません。私のような古い人間は寂しく感じてしまいます。

 

 確かにお釈迦様は死後の供養・葬儀・納骨等については、言及しておられません。

 

 しかし、それはしなくて良いと言っているのではなく、「お前たち(修行者)は修行の完成を目指しなさい。

信仰のある人たちが、供養・葬送はしてくれるだろう。」と言っており、供養・葬儀は必要なのです。

 

 

 そして日本では、葬儀は僧侶がやる事となり、インドでは冠婚葬祭に大きくかかわり民衆に溶け込む

ヒンドゥー教に比べ、葬儀をせず民衆から乖離していく仏教は衰退し、殆ど消滅してしまいました。

 

 日本的な仏教が一番長く信仰が続いたのです。

 

 多種多様な意見を認めようと時代に、「日本的伝統を守ろう」という意見、「保守的な意見」も、

多種多様な意見の一つとして、是非認めて頂きたいものです。

令和3年8月 お盆の棚経と写真

 今月はお盆の棚経にお檀家さんのお家を廻りました。

 仏間にはご遺影が掲げられたり、仏壇や精霊棚には故人の笑顔の写真、家族で一緒の写真が

置かれたりしています。

 一番の思い出の写真や笑顔の写真を見ながらお参りするのは、僧侶としてもとても嬉しいものです。

 

 今は、スマホで高画質の写真がほぼ無制限に撮影できるようになりました。

 

 食事を食べる前にパシャリ、服を着たらパシャリ、ペットをパシャリ(まあこれは私もします)、

酷くなると事故現場をパシャリ。

 

 いわゆる「写ルンです」で写真を撮っていた学生時代。24枚しか撮影できず。

 常に残枚数を気にし、上手く撮れたかどうかはその場では分かりません。

 現像してみるとその中でも、良い写真は数枚でした。

 

 そんな時代の良い写真の重みは今の写真の数百倍の価値があるような気がするのは、

私が年寄りだからでしょうか。お仏壇の写真はとても輝いて見えました。

 

 

 誰かの歌に「写真機は入らないわ 五感を持ってお出で」というのがありましたが、まさにそんな気分です。

 

 現代は、皆が監視カメラを持って歩いているような状態です。なんだか息苦しい。

 

 便利さに潜む、陰(かげ)の部分にも注目していかないといけません。

 

 問題なのは、その陰の部分こそが真実をありのままに写しだしているかもしれないという事です。

令和3年7月 純文学を読む

 高校一年生になった次男が、図書館で二冊本を借りてきました。

 太宰治の人間失格と芥川龍之介の羅生門や鼻、蜜柑や藪の中等が収められた短編集です。

 

 いやー、懐かしい。大学で理系に進んだ私は、高校以来実に三十年ぶりに読み返しました。

 

 若い頃は、特に面白いとも思わなかったこれらの小説が、アラフィフの身となって読むと面白い。

 

 まず、話が暗い。ネガティブシンキング。四法印の一切皆苦に通じます。

 

 もの凄く無常感が出ています。これも、同じく四法印の諸行無常や諸法無我の仏教感とリンクしてきます。

 

 前途洋々とした人生を進もうとしている若い頃は、なかなかこの感覚は理解できなかったなと思います。

 しかし、おっさんになり、人生をクロージングする事が近くなってくると、面白い。

 ようやくこの境地に達する事が出来ました。

 

 歳をとる事は、なにも、悪い事ばかりではありません。

 

 若かりし頃見えなかったものが見える。至らなかったところに至る。

 

 走り続けていると見えないが、ゆっくり歩くと見えてくる世界もあります。

 

 皆さん、歳をとってこその※「涅槃寂静」ですよ。

 

 

  ※「涅槃寂静」

   四法印の一つ、悟りの世界(涅槃)は、静かで安らかな境地(寂静)であること。

                                       by ウィキペディア

 

 

 

令和3年7月 人としての振舞(行い)

 コロナ禍の中、今月からオリンピックが行われます。オリンピックの可否、観客数について色々言われていますが、

ここではその是非は問いません。

 

 

 でも皆さん、コロナウイルスに罹患する事は怖いですか。怖いですよね。

 

 そして、放射能汚染も怖いですか。怖いですよね。

 

 二酸化炭素の増加による地球温暖化も、環境破壊も、紛争や戦争も怖い。

 

 

 

 よく考えてみると、これらは全て「人」の行いの結果です。

 

 

 

 つまり一番怖いのは「人」であると。

 

 

 

 【釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候いけるぞ】とは、日蓮大聖人様のお言葉ですが、

お釈迦様は私達「人」の振舞(行い)を正すために、誕生されました。

 

 

 私達が人でありながら、仏や菩薩として振舞えた時、怖い物はなくなります。

 

 

 どうしたら、そういう振る舞いが出来るようになるか、先月の三毒や六波羅蜜・五種法師の実践等、

在家・出家に関わらず、色々な修行があります。

 

 

 

 近くのお寺さんに尋ねてみてください。

令和3年6月 怒りの炎

 なかなか終息の兆しが見えないコロナ禍の中、逆に社会は怒りに満ちているように見えます。

 

 ところで、「怒る」と「叱る」の違いは何でしょうか。「怒る」は自分の負の感情を相手にぶつけるもので

自分の為の行為、叱るは相手のためを思いアドバイスする事、他者への行為と、一般的に言われています。

 

 さて、仏教には克服すべき最も根源的な煩悩が三つあるとされ、それが貪・瞋・痴(とんじんち)、

三毒というものです。

 

 その中で「瞋(しん)」が怒りや憎しみの心・煩悩です。私達が普段生活し、人と係わりを持つ中で、

必ず怒る・叱る状態がおきますが、怒りを克服し、相手の立場になって叱るようになれば、無用な

摩擦を生みません。

 

 ネット社会はとにかく、怒りの拡散が早く、あっと言う間に炎上してしまいます。まさに法華経・欲令衆の

中にあるとおり、怒りの炎が「熾然として息(や)まず(盛んに燃えて消える事は無い)」という状態です。

 

 そして、燃えているのは、ネットでの発言者でなく、非難している人々の心なのです。煩悩の炎が

燃え盛っているのです。

 

 とかく世知辛い現代ですが、怒りの煩悩を払い、怒るよりも叱るようになりたいですね。

令和3年5月 風評被害

【風評被害】の意味を辞書で調べると、「根拠のない噂のために受ける被害。

特に不適切な報道がなされたため、関係の無いはずの人々や団体までもが受ける存在」とあります。

 

 例えば、今回のコロナウイルスによる新型感染症が世界に拡がる中で、「コロナビール」や

ファンヒーター等を作る住宅設備メーカー「コロナ」などが、何の関係もないのに、売り上げが落ちたり、

不安を感じたりする人がいたことです。

 

 

 そんな中で、コロナ関連で熱い風評被害を受けたのが、「蔓延防止措置」略して「マンボウ」です。

  略語があのマンボウを彷彿とさせ、のんびりしていて危機感を感じさせない等、言いたい放題です。

 

 可哀想なマンボウ。一所懸命生きてるのに…。

 

 

 さて、もう一つタイムリーな風評被害が、「ドン・ファン」でしょう。

沢山の人が「ドンファンとは」で、PC検索をかけたと思いますが、スペインの好色放蕩な美男とされる、

伝説上の人物です。

 

 まあ、〇〇のドンファンと言うと、少し男性からのやっかみ・羨望が入っているような気がしますが、

〇〇の中に入った、「紀州」もまた風評被害を受けたような気が…。

 

 自由奔放に、自身の欲望のままに生き続けたその「紀州のドンファン」ですが、その欲望の大きさ故に

命を落とす事になってしまったようです。

 

 お悔やみ申し上げます。

 

 まさに、諸行無常です。

 

 

 人は生きていくために、種を存続していくために、ある程度の食欲や性欲は必要ですが、

大きすぎる欲望はやはり身を亡ぼすのです。

 

 

 

 「少欲知足」でいきたいですね。

令和3年4月 花祭り

 4月8日は花祭りと言い、お釈迦様の誕生をお祝いする日です。

 誕生の際、お釈迦様をお祝いする為、天から沢山の花や甘露のしずくが降り注ぎました。

現在に於いてはお釈迦様の周りを花で飾り、甘茶を注ぐ習慣として残っています。

 

 お釈迦様はお生まれになると直ぐに七歩進んで右手で天を、左手で地を指し示し、

「天上天下唯我独尊」と言われました。

 いや、凄いですね。生まれてすぐにですよ。

 しかも、お母さん(マーヤー)の右の脇から生まれたのです。

 

 上記の言葉も、あえて意訳をすれば、人々を苦から救う事が出来る悟りにただ一人到達した私は

尊い存在である。という感じでしょうか。解釈は色々とあると思いますが…。

 

 生まれてすぐにこんな難しい言葉は喋れないでしょう、普通。

 

 お釈迦様滅後、その生涯を人々が語り継ぐ中で、その非凡さを称える為に、少しずつ逸話が付加され、

誕生譚になっていったのでしょう。そこには後世の人々のお釈迦様への尊崇の気持ちが込められているのです。

 

 

 お釈迦様は人の振る舞いを説かれました。

 超人的な誕生譚ですが、悟りを開いたお釈迦様はあくまでも「人」です。

 

 そこが全知全能の神様が出てくる、他の世界宗教との違いです。

 

 だからこそ、私たちは、神様にはなれませんが、仏さまには成れるのです。

 

令和3年3月 健康についての真理

 私は、以前からある重大な真理に気が付いていました。健康について・・・。

 

 古くはアルキメデスの原理、新しくはABC予想に匹敵する健康についての真理とは!

 

 

 【健康診断(もしくは診療を受ける)をしない限り健康である!】

 

 健康診断を受けてしまうから、自分が健康でないことがばれてしまい。せっかく健康でいたつもりだったのに

不健康になってしまうのです。

 

 と、現在病気療養中の方や、医療関係者から見たら叱責を受けそうな、くだらない事で申し訳ありません。

 冗談です。受け流して下さい。

 

 さて、健康診断なるものをこれまで華麗にスルーしてきた私ですが、妻からいい加減50歳近いし、

健康診断を一緒に受けましょうと諭され、嫌々ながら行って来ました。

 

 

 結果が来ましたが、やっぱりですよ。かなり重症な高血圧。加えてメタボリック予備軍!との事。

 今まで健康だったのに、不健康があばかれてしまいました。

​ やっぱり健康診断は大切です。

 

 紺屋の白袴、医者の不養生、そして坊さんの不摂生、情けない話です。そんなんで人に偉そうに法を説くなとの

お言葉、痛み入ります。

 

 宣言します。来年の健康診断までに、血圧を正常範囲に、体重を5kg減量します。1年で5キロ?と言わないでください。

 これまでの人生に於いて順調に増えて来た体重は簡単には落ちないのです。緩めの目標を設定し、着実な達成を

目指します。

 

 全く法話ではありませんが、宣言する事により、続けざるを得ない状況に自分を追い込みます!

 

令和3年2月 クラブハウスと森会長

 世間ではクラブハウス(Clubhouse)という、音声SNSアプリが話題になっているようですが、

私の専らの関心は、2050年のカーボンニュートラルに向けて、ガソリンエンジンもっと言えば、

ガソリンエンジン+MT(マニュアルトランスミッション)の車がどうなってしまうかです。

 

 18歳で免許を取得して30年。東京で家族が出来た時に数年間だけ、モビリオ(AT)に乗って

いましたがそれ以外は全てMTを乗り続けてきました。

 とうとう電気自動車に乗る事になってしまうのか。カムに乗った加速を味わえなくなるのか・・・。

 

 携帯も未だガラケー、MTじゃないと嫌だという、年寄りには昨今のSNSは全く分かりません。

 

 全く最近の若者はなどと、愚痴の一つも言いたくなってしまいますが、いいじゃないですか、

それが言えるのも年寄りの特権。

 

 

 まあ、五輪組織委員会森元会長に対する老害発言のオンパレードもひどすぎるような気がします。

 

 

 これから日本は超少子高齢化社会が到来します。高齢者には本人の希望に関わらず、活躍して

もらわないと日本が持ちません。

 

 森元会長の発言を擁護するつもりは全くありませんが、なんだか高齢者に対する逆差別のような気もして、

やりすぎなような気がします。

 

 

 何度も使った言葉ですが、やはりここは「中道」で行きたいものです

 

令和3年1月 コロナ禍の新年

 あけましておめでとうございます。

 このコロナ禍の中、何も、おめでたくない?

 いえいえ、何とか新年を迎える事が出来たことは、何はともあれ、おめでたいことです。

 さて、昨年はコロナ禍につきますが、それに伴う経済の悪化、医療体制のひっ迫と、過去に類を見ない

大変な年になりました。

 

 日蓮大聖人曰く「天地は国の明鏡なり」(自然は国や人の営みを写す鏡である。国や人乱れる時、

自然は災害となり、牙をむく)、と示されました。

 人が正しく生きないと、国は乱れ、災難が起きます。

 

​ では正しく生きるとはどういう事でしょうか。

 

 

 科学技術の発展した今日、私たちは、自然を克服したと思いがちですが、洪水や干ばつ、大雪や疫病等、

実は自然に何とか生かして頂いているのです。

 

 

 自然に謙虚になり、感謝の気持ちを持ち、自身の振る舞いを今一度真摯に反省し、自然に感謝し、

日々の信仰に励み、この困難を乗り切りましょう。


 

 本年も宜しくお願い申し上げます。

 

令和2年12月 宗教は不要不急か?

 

 先日、評論家の宮崎哲弥さんの話を聞いていて、始めて知った話で、そこからの孫引きになりますが、

以下の文章は大正12年9月1日の関東大震災の後に芥川龍之介が記した随筆の一部分です。

少し長いですが、頑張って読んでみてください。

 

 

僕はかう云ふ景色を見ながら、やはり歩みをつづけてゐた。

すると突然濠の上から、思ひもよらぬ歌の声が起つた。歌は「なつかしのケンタツキイ」である。

歌つてゐるのは水の上に頭ばかり出した少年である。僕は妙な興奮を感じた。

僕の中にもその少年に声を合せたい心もちを感じた。少年は無心に歌つてゐるのであらう。

けれども歌は一瞬のあひだにいつか僕を捉とらへてゐた否定の精神を打ち破つたのである。

芸術は生活の過剰ださうである。成程なるほどさうも思はれぬことはない。

しかし人間を人間たらしめるものは常に生活の過剰である

僕等は人間たる尊厳の為に生活の過剰を作らなければならぬ。

更に又たくみにその過剰を大いなる花束に仕上げねばならぬ

生活に過剰をあらしめるとは生活を豊富にすることである。

僕はまるの内の焼け跡を通つた。

けれども僕の目に触れたのは猛火も亦また焼き難い何ものかだつた。

 

 

 現今のコロナ禍の中、不要不急の外出や飲食の自粛を要請されたりしています。

  

 不要不急の中には、当然芸術もあれば外食もある。法事もその中に含まれるかもしれません。

しかし、不要不急でないもの、芥川龍之介曰く【生活の過剰】かもしれない事が、

人間を獣でなく、人間らしくするのです。

 

 関東大震災の悲劇からまだ世間が立ち直らない中、少年が清らかに歌う歌声が、

否定的になりがちな芥川龍之介の心を捉え、希望の光が差し込んだのです。

 

 自粛ムードが続く中、感染防止に努めることは何よりも大切な事ですが、

この随筆の中で同じく述べられている【否定的精神の奴隷となることなかれ】、

【生活の過剰を作り、その過剰を大いなる花束に仕上げねばならぬ】。

この姿勢が人として一番大切なように感じます。

 

 どんよりと曇った空も、その向こうには青空が広がっています。

 

 駄目だ駄目だと考えず、前向きに進んで行きましょう。

 

 さすが、芥川龍之介ですね。

 自分の浅学非才さが嫌になります。

 

 おっと否定的精神に囚われそうになりました。

 

 

令和2年11月 大統領選挙

 アメリカの大統領選挙が大変な接戦になっているようです。

        

 共和党・民主党、左右どちらの陣営が勝利するかは分かりませんが、改めて今回の混乱は

「民主主義」って本当に大丈夫なの?という疑問を突き付けていると思います。

 

 特に日本国民は戦前の軍国主義の反動もあって、民主主義は素晴らしい!と教えられてきました。

 

 しかし、その結果、決定に時間がかかり、世の中の分断を生む原因になっています。

 

 だからこそチャーチル曰く、「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」なのかもしれません。

 

 

 ここで大切なのは「民主主義」と共に、やはり「信仰」にあると言わざるといません。

 

 信仰といっても難しく考える必要はありません。

 小さい頃おじいちゃんおばあちゃんから言われた「お天道様が見ているよ!」でいいのです。

 

 誰かが見ているから良い事をする。

 誰も見ていないから悪さをする。

 のではなく、

 

 「お天道様(神仏・ご先祖様)はきちんとみているんだから、ちゃんと真っ直ぐに生きなければならない」なのです。

 

 

 この考え方さえちゃんと心の芯としてあれば、日本の未来はまだまだ明るい筈です。

 

 どうか早速皆様のお子様、お孫様に言い聞かせて下さい。

 

 

 

令和2年10月 健気と病気

 先月九州を襲った台風は、予想より被害は少なかったものの、お寺の境内の枝垂れ桜は、潮風に揉まれ、全て散ってしまいました。

 しかし、健気にも新たに葉を出し、懸命に生きようとしています。

 同じくこの世は無常です。社会の強風で身ぐるみ剥がされる時もあるかもしれません。

 それでも自然と同じように、私たちは健気に生きていかねばなりません。

 

 

 【健気】には一般的な、「しっかりしているさま」や、「気丈なさま」という意味の他に、文字通り、【健康であるさま】という意味もあります。

 

 

 【気持ち(心)】が前向き・健康だから体も健康、それが【健気】であり、健康(元気)であるわけです。

 

 逆に、気持ちが後ろ向きで気分がすぐれなければ、体も病におかされ、すなわち【不健康(病気)】になります。

 

 

 病は気からとは良く言ったもので、無常の世の中で【健気】に前向きに進むことが出来れば、病にも成り難く、運気も良くなっていくのです。

 

 荒れ狂う、この世の中では常に逆風が吹き荒れています。

 しなしそれでも、前向きに歩を進める。

 そのひたむきな姿勢、信仰の姿に神が宿ります。

 

 そこにしか神仏の助けは起きないのです。

 

 

 

令和2年9月 新総理誕生

 安倍総理が辞任を表明しました。今月中には新総理が選出されると思いますが、何はともあれ、8年近くの日本の舵取りまずはお疲れさまでしたと、ご慰労申し上げます。

 

 さて、安倍総理は保守・タカ派の権化とみなされ、左翼・革新系の人達から総攻撃を食らっていた感がありました。

 

 ちなみに日蓮聖人は当時の仏教勢力の中で、まさに革新であり、その日蓮聖人の革新の考えを守っていく私達は保守であらねばなりません。

 

 但し、日蓮聖人の立場からすると、本来のお釈迦様の教えを守っているだけで在り、正当保守であった訳です。

 

 と、保守だ革新だと、自分でも何を言っているのか分からなくなってきましたが、いつも書いている様に、この世は無常であり、一強と呼ばれた安倍政権にも必ず終わりは来ます(来ました)。

 そして現在、コロナ禍の中、景気の悪い話が世間を覆っています。しかし、それも無常、悪い事がいつまでも続く事もありません。「どうせ何も変わらない」と思い込まず、良くなると信じて、新しい総裁・総理の誕生を期待しましょう。

令和2年8月 お盆とコロナ

 四月から大学に進学した娘が夏休みに入って帰って来ました(7月下旬に帰省)。五月の連休ではコロナの緊急事態宣言で帰れませんでした。

 

 

 娘の進学した大学は全寮制ですが、コロナの為、入学後しばらくは土日の外出もできず、二十四時間、始終上級生と一緒で、精神的にかなりきつかったようです。

 

 

 七月には前期の締めとして、八キロメートルの遠泳を行い、日焼けした、逞しい姿で帰って来てくれました。

 

 

 子はあっと言う間に成長し、親を超えていきます。

 

 

 反対に親は「順調に」年老いていきます。

 

 それでいいのです。

 

 それが自然。

 

 

 若者の活躍を見守りながら、あるがままに生きていきましょう。

 

 

 

 それにしても、帰省の自粛云々が議論されています。

 

 お盆にはご先祖様が帰って来ますが、リアルの家族が帰って来られないなんて…。

 

 帰省して高齢の親に万一の事があればという気持ちも分かります。

 

 しかし、帰省して会っておけば良かったという事にならないとも限りません。

​ 難しい問題です。

 

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